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蛍光体による流れの可視化研究推奨。木村雄吉神戸大名誉教授のパワハラ告発。

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第4編 神戸大学工学振興会機関誌 寄稿文への反論



本編は上記メニュー「第1編 研究の経緯」中の「第4編 神戸大学工学振興会機関紙 寄稿文への反論」の再録である。


2015年 神戸大学工学振興会機関誌(2015、No79)
     木村雄吉名誉教授の寄稿文への反論

(2019,9,11に調べたところ、機関誌No79が開けない状態になっている。
No65~88まで、合計24号中1冊だけNo79が開けない。確率24分の23の割合で故意の可能性がある。)



 2014年秋の瑞宝中綬章を受けた木村雄吉神戸大名誉教授の寄稿文がある。以下はその内容である。(①、②の番号の記入、②の前の空白行の挿入は筆者)
 これまでいろいろと私が書いても、木村氏が否定すれば信憑性に欠けるので、ここは否定のしようがない寄稿文を徹底分析して反論する。長い寄稿文だが、証拠資料として原文を変更できないので我慢して読んでほしい。

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(引用開始)


 私が神戸大学工学部機械工学科流体力学講座に助教授として着任したのは昭和43年4月のことである。着任早々真っ先に手掛けたのは極超音速風洞の設計及び製造であった。高速空気力学、空気の電離、解離を伴う実在気体力学の研究に欠かせぬ装置である。幸い先輩の先生方のご尽力のおかげで比較的短期間に装置の完成をみた。平成10年定年退官までの30年間、この風洞装置は大きな故障や事故も起こさずよく働いてくれたものと思う。


 私があまり実用的とは言えない高速空気力学の研究への導入はいつ、何がきっかけだったのだろうか。さしあたって学生時代にさかのぼり、思い出すままに回想してみることにする。 昭和32年、京都大学機械工学科学部4回生の時に初めて、「流体」の研究というものに携わった。「軸流水車の翼列の研究」というテーマが与えられた。研究とは名ばかりで、実際は大学院生の研究の手伝いであった。巨大な回流水槽中に設置された翼型の性能試験で、数10本並んだ水銀マノメータの読みを記録するだけの作業であった。あとは読み取ったデータをグラフに描きプラニメータで面積を測る。このような作業が毎日続くと、やってることが空しく、自分にとって何の益にもならないのではないかと悩んだものである。後に知ったことであるが我々の得た結果は軸流水車翼のデータベースの一部であったようである。

 それでも週末などには神社仏閣を巡ったり、街中を散策したり結構京都の街を楽しんだものである。ある日、古書店で一冊の本に出会った。戦時中に発行されたもので粗悪な紙は黄ばみ、かびた臭いがする、「ロケット航空工学」という本、著者はE・ゼンゲルとあった。これが私が生れてはじめて所持した専門書であった。内容はロケット推進力、空気力学、ロケット軌道などであり、当時の私にとって文中の専門用語が新鮮であった。なかでも弾丸周辺に生じる衝撃波のスケッチ図が強烈に印象に残っている。現在の航空力学の水準からみて、それほど高いとは言えないし、中には誤った記述もあるが当時は有名な書物であったようだ。当時の私の学力では半分も理解できなかったと思うが熱心に読んだ記憶がある。現在ではこの本も専門書としての価値はほとんど無いが、今も私の本棚の中に大切に保存してある。


 大学院でも引き続き同じテーマが与えられ、今度は学部生が下についてくれたおかげで実験は彼らに任せ、私自身は翼理論の論文を読む暇ができた。その翼理論を実際の翼列に適用するための数値計算を手回しのタイガー計算機で行うのだが、労力と時間ばかりがかかったのを覚えている。

 昭和35年、三菱重工業株式会社神戸造船所流体力学研究所に勤務することとなった。ここで遠心圧縮機の研究に従事する。圧縮機ローター内の羽根形状による熱効率の研究であった。毎分2万回転の羽根車が強烈な騒音を立てて回転するなか耳栓をして実験をした。ここでは熱効率わずか1〜2パーセントを競うという業界のし烈さを知った。そのほか鉄塔用風洞の製作にも携わった。幅1m、縦2mの吹出し口を持つ縦長風洞の設計担当を命ぜられた。特徴は地表を吹く風の風速分布シミュレーションができる性能を有する風洞であった。 


 三菱重工ではわずか2年足らずの勤務であったが、本物のプロの仕事を見ることができた。特に設計製図に関して、その迅速で正確なこと、製図の美しいことが強く印象に残っている。

 昭和37年、京都大学工学部航空工学教室に助手として勤務することになった。最初に与えられた仕事が極超音速風洞の試作研究で、この風洞は日本には未だ無く世界でも開発中の段階で、数少ない文献を頼りに手探りで設計製作を行わねばならなかった。全長7m足らずの小型パイロット極超音速風洞装置を試作して、設計マッハ数など所定の性能を得るための実験を、試行錯誤を繰り返しながら日夜行った。ほぼ一年近くの試験運転を経て、ようやく研究成果を論文に仕上げることができた。論文は日本航空学会誌に掲載されたが、当時、航空学会には戦時中に戦闘機設計などで名を馳せた方々が大勢おられた。会長は堀越二郎氏で、会員には山名正夫教授、木村秀政教授、糸川英夫教授など多士済済のメンバーが居られ大いに士気を鼓舞されたものである。 


 昭和39年、京大宇治キャンパス超空気力学実験室の設置が文部省によって認められた。私がこれまで関わってきたパイロット風洞の研究論文を基に本格的な大型風洞を設計・製作した。全長32m、マッハ数10〜16の大型極超音速風洞がこの実験室内に完成する。吹出し口直径50cmで世界のどの風洞に比しても引けを取らないものであった。

 また、この研究室内に設置するプラズマ風洞の設計にも携わった。放電電極間にアルゴン、ヘリウムなどの希ガスを通しプラズマを発生させる。このプラズマトーチを風洞内に取り付け、ノズルを介して噴射させるのだが、澱み点温度5000Kに達するので冷却に苦労した。試運転時に何度もノズル材料が高温で溶け、水漏れをおこす失敗を繰り返しては設計のやり直しをした。昭和40年暮れに完成した。


 顧みれば学生時代に偶々入手した一冊の書物が私の研究へのイントロダクションとなったのかも知れない。このことが助手時代での種々の実験や物造りの経験を通じ、流体力学、空気力学はもとより実在気体力学、放電技術、設計製図などの知識、技術などを得ることにつながった。そしてこれらが後々神戸大学における30年間の研究生活の基盤となった。

(引用終了)

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①について
1、教育業績も研究業績もない

 木村氏が30年間も勤務した神戸大工学部の、機関誌への寄稿文であるにもかかわらず、神戸大勤務時代についての記述(①の部分)量は、全文(①と②の合計)の11分の1しかなく、余りにも少ない。念のために、他の受章者の寄稿文を調べてみると、神戸大時代については全文の半分以上の記述量がある。当然だ。読者のほとんどは神戸大工学部卒業生だから、木村氏の神戸大時代について一番知りたいはずだ。なのに、どうしたことか。神戸大時代について語りたくないのか。

 優秀な名誉教授は、たいてい博士号取得者を何名輩出、著名な国内外の何とか賞を受賞と書くのだが、木村氏の成果らしきものは「30年間大きな故障や事故も起こさずよく働いてくれた風洞装置」とある。博士号取得者や研究成果よりも実験装置を自慢するのは、的はずれではないか。念のために、インターネットで木村氏の研究成果を検索してみると、日本機械学会賞レベルの受賞はない。(木村氏同様に神戸大学定年後に福井工大に再就職した冨田佳宏氏と比べると業績に雲泥の差がある)

 さらに言えば、同じ装置で30年間世界の最先端の研究ができるのかという点だ。成果が上がれば研究助成金がもらえ、新装置でさらに成果を上げ……というようにならなかったのか。

「自慢好き」の木村氏が、人材輩出も研究成果も寄稿文に取り上げなかったということは、よほど「業績がない」ということだろう。


2、大きな事故も起こさず?
助手の一人が失明しかけて夜中に救急車で運ばれたことがあった(私の研究グル―プも同じ目にあう可能性があった)。これは、寄稿文で言うような「大きな事故」には当たらないということか。

 蛍光体には亜鉛・カドニウム・銅などの重金属が含まれ、粒径が小さいので肺に入り込む。特殊なマスクを買ってほしいと懇願したが無視されたことがあった。木村氏が、「大きな事故」を防ぐために日頃学生の健康被害には十分注意した、と言うことで決してない。


3、例年2月の欠勤の理由?
 木村氏は、普段喫煙を続けながら、例年卒業研究追込み時期の2月は、喘息のために大事を取って大学に出てこなかった。当然、学生の卒業研究の指導はおろそかだった。
 神戸大退職後、福井工大に再就職している。福井は神戸よりもずっと寒い。そんな寒いところでは、きっと12・1・2月は喘息で大学に出られないだろう。年老いた体力でそんな寒いところで勤務できたのなら、若き日の、神戸大での例年の2月欠勤は許されないことになる。


②について
「……流体力学、空気力学はもとより実在気体力学、放電技術、設計製図などの知識、技術などを得ることにつながった。そしてこれらが後々神戸大学における30年間の研究生活の基盤となった。」について。

4、「研究生活の基盤となった」
 木村氏は偏微分も常微分も区別できず、院生の指導ができていなかった。私には、理論面で分らないことがいっぱいあったが、木村氏に質問したことは無かった。と言うよりは、できなかった。
 「研究生活の基盤となった」と言われるが、基盤には、高いレベルも低いレベルの基盤もある。「研究生活の低いレベルの基盤となった」と訂正してほしい。

 さらに、自然科学の分野は広く奥が深い。やればやるほど新しい発見がある。日進月歩の世界だ。仮に「研究生活の基盤となった」知識でも、しばらく経つと陳腐化する。一時的な「基盤」にいつまでもあぐらをかいていると、学生からも馬鹿にされる。このような高慢なセリフは、神戸大学工学振興会機関誌のどのページをを探してもない。
 アインシュタインの言葉がある。「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。」
 研究は、たまねぎの皮を内側から外側へ剥くような作業だ。剥けば剥くほど、より多くの未知の皮が見つかる。

 


5、研究生活の基盤となっていない 1
 私が回流型可視化風洞を作ったとき、教授から何の助言もなかった。私の書いた設計図にすぐに製作OKが出た。しかし、後で水流を可視化して分かったのだが、この回流型可視化風洞は、整流格子などの乱流強度を抑える仕組みの無い欠陥風洞だった。木村氏の言うように、三菱重工業での
縦長風洞の設計担当の経験が、「研究生活の基盤」となっていない。

6、研究生活の基盤となっていない 2
 「全長7m足らずの小型パイロット極超音速風洞装置を試作して、設計マッハ数など所定の性能を得るための実験を、試行錯誤を繰り返しながら日夜行った。……私がこれまで関わってきたパイロット風洞の研究論文を基に本格的な大型風洞を設計・製作した」とある。

 要するに、いきなり本格的な大型風洞を製作しないで、まずは、小型パイロット極超音速風洞装置で基礎データを収集したのだ。慎重に研究を積み重ねたのだな。

 一方、神戸大教授就任直後の「蛍光体による水流の可視化研究」では、「基礎から積み上げて行きたい」という私の主張は「理学部的だ」と非難された。そして、いきなりの気流の可視化で、私、中畑君、中野君の3人が失敗した。この研究をなめてかかったのだ。全然「研究生活の基盤」となっていない。

7、研究生活の基盤となっていない 3
 筆者の「蛍光体による水流の可視化研究」は、修論段階でも、流体関係者が「使ってみたい」というほど評価が高く、産業界・流体工学に大きく寄与できる成果だった。それを無視して、それをボツにしてしまった。研究成果を社会に還元しようとする責任感がない。公務員としての「研究生活の基盤」となっていない。

①と②について
 神戸大勤務前時代(②の部分)には京都大学・三菱重工業時代に「流体力学、空気力学はもとより実在気体力学、放電技術、設計製図などの知識、技術などを得ることにつながった」とあり、すごい知識・技術を得た大物が神戸大に来られたんだな、と誰でも思う。

 さらに末文に「そしてこれらが後々神戸大学における30年間の研究生活の基盤となった」と、たいそう自信に満ちた言い切である。他の教授の寄稿文を探してもこれほど自信に満ちた文は見つからない。

 しかし、自信満々の木村氏にしては、①で述べたように、華々しい人材輩出・研究成果の記述が一つもない。①と②の趣旨が矛盾している。この「二枚舌」は何を意味しているのか。

8、業績不振は神戸大生の責任だ?
西本さんの未完成論文事件で、木村氏の怠慢(偏微分と常微分の区別がつけられず、指導を誤った)にも原因があったにもかかわらず、「(西本さんの論文について)こんなの初めてや。私の言う通りにすれば大丈夫だ」と責任を西本さんになすりつけたことがあった。 
 また、中野君が、木村氏が指示した気流の可視化に失敗した時は「そりゃ―そうだ」と言って、暗に「君が失敗するのは、賢い私にとっては想定内の事だ。君には無理だと分っていた。私の指導は正しいけれど、君に能力がないから失敗したのだ」と責任を中野君に転嫁したことがあった。
 更に、私の修論を、海外向けの工学部英語論文集に掲載するので、英訳をしてほしいと言われ、大学に顔を出した。しかし、投稿期限が過ぎていた。教授はいろいろ弁解していたが、そのうち、私に謝罪するどころか「なんでもっと早く修士論文を書いて、英語論文に直しておかなかったのか」と、今度は私に責任を押し付けてきたことがあった。

 このように、自身の失敗は絶対に認めない。失敗の責任は何が何でも学生に押し付ける性格だ。これらの事例から、「二枚舌」は「こんな優秀な私が、神戸大に来て成果を上げられなかったのは、能力がない神戸大生の責任だ。私の責任ではない」と暗に言っているのだ。

 こんな暴論でも、教授に学生を生殺与奪できる権力のある研究室内では通用する。しかし、一般社会では通用しない。例えば、30年間社長を勤めて、その間業績を上げられなかった者が、「この会社に来る前は、俺は優秀だった」と言い訳しても誰も納得しない。過去にどんなに業績があったとしても、新しい職場で成果を上げられなければ、何の意味もない。給料は過去に対して支払われているのではない。


 学力の低い大学生の指導では、教授がどんなに頑張っても、成果が上がらないこともあるだろう。そこで、神戸大生レベルでは博士号取得や研究業績を上げることは無理なのかどうかを調べてみた。
 大学入試偏差値を調べてみると、神戸大工学部より少しだけ千葉大工学部が低い。その低い千葉大工学部で業績を上げている教授がいる。2016年度日本機械学会 機械力学・計測制御部門で、 学術業績賞を受賞した野波健蔵千葉大学特別教授である。

 「同氏は,機械力学・制御に関する査読付き学術論文236編をはじめ,著書18冊,育成した博士の人数51名など優れた学術業績をあげられました。その結果,日本機械学会論文賞,部門パイオニア賞などを受賞されました。1994年出版の「スライディングモード制御」は,先駆的書籍であり,1998年出版の「MATLABによる制御理論の基礎」,「同制御系設計」は高度な制御理論を平易に記述した新しい教科書として高い評価を受けました。……「ドローン研究開発の第一人者」となっています。」(学会誌からの引用)
 
 この引用文中に、「育成した博士の数51名」とあり、神戸大生でも指導者次第で伸ばせることが分かる。従って「こんな優秀な私が、神戸大に来て成果を上げられなかったのは、能力がない神戸大生の責任だ。私の責任ではない」とは言えないことになる。
  
 
9、読者の足元を見た強気の発言
 「……30年間の研究生活の基盤となった」という強い言い切り方について。
 私の経験によれば、木村氏は、相手が「大学教授は謙虚で有能で正直だ」という好意的な先入観を持っている、とみなした時に、「強い言い切り方」を多用する。しかも今回は、名誉ある瑞宝中綬章を受けた寄稿文である。強気の作文を書いたのだろう。
 しかし、前述の野波教授ほどの業績を上げて、初めて「……30年間の研究生活の基盤となった」と言い切ることができると言うものだ。「30年間大きな故障や事故も起こさずよく働いてくれた風洞装置」程度で、あつかましい。

 木村氏が教授に昇進して初めての修論発表会で、前述の西本さんの論文発表後、赤川教授から「ノズルから測定物体までの、実験説明上の基本的な長さが抜けている」、「定常か非定常現象か、どちらを扱った論文か分らない」という基本的な指導ミスを指摘された。この間、指導責任のある木村氏はうつむいて、頭をかいていた。会場を埋め尽くした学生や教官は、「中学生の夏休みの自由研究程度でも修士論文とし出せるのか」と唖然としていた。どこが「……30年間の研究生活の基盤となった」である。だまされてはいけない。
 
 36歳と言う若さで教授になったので、当時の教授・助教授・助手や私のような批判的な学生は、今や誰も神戸大に在職していない。何を言ってもごまかせる、と読者を見くびって、自分に都合のいいように文を書いたのだろう。週刊誌的に言えば「木村節全開」というところだ。木村氏が得意の「相手の足元を見て、羊頭を掲げた」のだ。木村氏の性癖を熟知した私の面前で、堂々としゃべれるようなことではない。

 
10、仮想的有能感
 もう一つの解釈は、前述のような「相手の足元を見て、羊頭を掲げた」のではなく、木村氏は本気で「……30年間の研究生活の基盤となった」と思い込んでいるのではないか。自身の能力を過大評価し、「自分のミスなんかは大したことはない。成果が上がらなかったのは、みんな学生のせいだ」と。この解釈の方が、神戸大時代の木村氏の無責任な言動をよく説明できる。
 
 私にはこれ以上の深い説明を、精神分析の知識がないので展開できないでいた。しかし、新聞記事で気になる言葉を見つけた。他人を非難する息子の言動に不安を覚えた母親からの人生相談の中で、回答者が用いた、速水敏彦 名古屋大学大学院教育学研究科教授が提唱する「仮想的有能感」である。
 「現実には有能とは認められないにもかかわらず(だから仮想的有能と名付けられた……筆者注)、失敗の原因などを自分以外の要因に帰しやすい。また他者の失敗に敏感で、その機会を捉えては相手を批判することで、自分の有能さを回復させたり誇示したりする」とある。
 木村氏の言動はこの「仮想的有能感」に酷似していて、氏の不可解な言動をほぼ説明できる。念のために、この文章を本書の内容に沿って書き直す。
 「現実には有能とは認められないにもかかわらず、教授自身の指導上の失敗を学生側の要因に帰しやすい。また学生の失敗に敏感で、特に有能な学生を標的にして、その失敗の機会を捉えては学生を批判・叱責することで、自分の有能さを回復させたり誇示したりする」。
 

 実社会ではここまでが限度だろう。しかし、大学の研究室では、教授に強大な権力が与えられるので、さらに過激になる。この文章に「研究の失敗が明らかに教授の責任であっても、その責任を学生に転嫁し、挙句の果てに学生を叱責する」を追加しておこう。


 以上の反論から、本書の内容が虚偽ではない、と信じていただければうれしい。

 木村氏は研究の進め方も学生の指導の仕方も、支離滅裂だった。大学にとっては、数千人の学生のうちの一人かもしれない。しかし、一人ひとりの学生は人生をかけて研究に取り組んでいる。学生の研究者への夢を摘み取り、社会へ貢献できる技術を廃棄した。神戸大学は社会的責任を痛感してほしい。
 再発防止対策を講じ、まずは木村氏から名誉教授の称号をはく奪すべきだ。さらにできることなら、「多数決の愚」という銅像を建ててほしい。研究方針を決めるために、徹底して議論をし、多数決に頼るなという警告を込めて。もちろん像は「失敗したらみんなの責任だ!」と立ち上がって叫んでいる木村教授の姿だ。

 

 

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