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蛍光体による流れの可視化研究推奨。木村雄吉神戸大名誉教授のパワハラ告発。

TEL.079-564-6808(番号・音声は記録)

〒669-1544 兵庫県三田市武庫が丘6-19-2

「蛍光体による流れの可視化」研究の経緯
   ーこの教授だけは許せないー


第1編 研究の経緯

目 次          

はしがき 

第1編 研究の経緯 

第1章 修士課程時代 

1 神戸大工学研究科修士課程1年 (1971 4月~19723) 

 4月 専攻変更  

 6月 電卓ミス責任転嫁事件 

 10月 不信感の芽生え 

 3月 深まる不信 

2 修士課程2年 (1972 4月~19733) 

 4~5月 蛍光体による高速気流の可視化法(以降、蛍光体法
       と略記)の提案 

 着想方法の練り直し 

 蛍光体法の発見 

 実現性の検証①……走査線掃引速度 

 実現性の検証②……蛍光体の密度・粒径 

 実現性の検証③……蛍光体の混入密度 

 創造性とは 

 6~7月 研究方針の対立 

 元工作少年 

 8~12月 気流の可視化の厚い壁 

 蛍光体による健康被害の懸念 

 1~2月 水流の可視化の成功 

 層流の可視化 

 臭いものには蓋事件 

 乱流の可視化 

 円柱まわりの流れの可視化 

 流速測定の成功 

 3月 修士論文発表 

 

第2章 荏原製作所時代1973年4月~1974年1月)

 4月 中央研究所配属 

 7月 流れの可視化に関するシンポジウム 

 当時の流体の可視化の動向 

 10月 責任転嫁 

 12月 教授来社 

 課長へ退職を報告 

 中央研究所所長へ退職のあいさつ 

 送別会 

 1月 荏原製作所退職 

 

第3章 神戸大研究生時代 1974年4月~8月 

 4月 二兎を追う者は一兎をも得ず 

 5~6月 紫外線レーザー購入約束の反古 

 ずさんなアイデアの披露 

 ノルマのつり上げ 

 企業における博士号の価値


  一粒で3度おいしい 

 7月 再び、臭いものには蓋 

 失敗したらみんなの責任だ 

 もはやこれまで 

 8月 退学の電話


  リーダーの降格 

 退学の面談 

 創造工学


  学業成績と研究能力の関係

 8月末 論文発表



  筆頭著者の誤記入放置は、木村教授の「悪意による不当利得」だ


 
未確認思考体

 8月末日 研究生退学 

 

第4章 その後 

 1974年10月 手紙を送りつける 

 自殺願望 

 1974年11月 中野紳二君との偶然の再会…「教授ってそ
           んなに偉いのか!」


  1986年7月 木村教授講演会

 1997年6月 地震直後の同窓会 

 1999年10月 神戸大退職後の同窓会 

 手紙を送りつける 

 2015年 神戸大工学振興会機関誌(2015、No79)
        木村雄吉名誉教授の寄稿文への反論 

第1編のまとめ 

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       本   文


一部、仮名をつかっています。教授、助教授、講師などの官職名は当時のままです。

第1編 研究の経緯 

この編では、「蛍光体による流れの可視化研究」について、始まりから現在
までを時系列で詳説しています。

具体的には、なぜこのような研究を始めたのか、どのようにして独創的発見ができたのか、どのようにして研究を進めたのか、なぜ成果が上がっているのに研究が頓挫したのか、教授からどんなパワハラ・アカハラがあったのか、などを詳説しています。

第1章 修士課程時代 

1 神戸大工学研究科修士課程1年 (1971年 4月~1972年3月) 

4月 専攻変更

当初、修士課程では、当時脚光を浴びていたNC工作機などを扱う機械工作を専攻するつもりだった。

しかし、福井大卒業1か月前、平井恒夫教授が「若いときには、熱力学・流体力学・材料力学のうちのどれか一つの理論をしておくように」と私に助言された。そこで急きょ、極超音速流が専門の木村雄吉(たけよし)教授に「理論をしたい」との希望を伝えて、機械工学研究科の教授会に諮られ、他の院生よりも1か月ほど遅れて、研究室に配属になった。
 遅れたのは、専攻変更があまり前例のないことだったのだろう。私のわがままを受け入れてもらい、感謝すると同時に、「いい加減な修士論文は書けないぞ」と気を引き締めた。
 
 

 この研究室は新しくできたばかりで、実験装置らしいものは何もなかった。木村教授は、私の配属のこの年に教授なりたての弱冠36歳だった。その下に田中助手、蔦原助手、桑田技官の職員構成であった。修士課程2年生に北村さん、西本さん、そして1年生は私一人であった。木村教授にとっても、大学院生が途切れてしまわないように、1年生が欲しいところであった。 

6月 電卓ミス責任転嫁事件

 新設研究室に設備をそろえることになった。リコー・モンロー社の関数電卓のセールスマンが、宣伝のために実演にきた。10回ほど四則計算をしてやっと未知数Xが求められるような方程式の解法を、各自がプログラムして、この電卓の凄さを実感してくれ、というものだった。

北村さんと私が挑戦して、正解を出した。教授は、蔦原助手に入力を任せ、自身は指示する係に回った。このとき「もし、答が違ったら、それは君(蔦原助手)のせいだからな」と冗談半分で言った。結果は正解であったのだが、自分たちは自前の頭で逃げ道なしで勝負しているのに、教授だけが責任転嫁という逃げ道を用意しているのは卑怯だ、とその性格に違和感を持った。

以後、この事件を彷彿させる責任転嫁が繰り返されることになる。本書で、この事件の引用は、「電卓ミス責任転嫁事件」と、呼ぶことにしよう。 

10月 不信感の芽生え

「画期的な理論を打ち立ててやる」と意気込む西本さんが、「どうだ」と自信に満ちた笑みを浮かべて、修士論文下書きを見せてくれた。
 最初の1ページ目を見て、私が計算ミスを発見した。偏微分で書くべき式が常微分で書かれていた。私が指摘すると「偏微分と常微分は同じで、筆者の気分で、どちらで書いてもよい」というので、あ然とした。
 私の微積の使い古した数学書を開いて間違いを説明した。

しばらくして、このミスを見落とした教授は、この数学書を何度もめくって確認をした。バツの悪そうな顔をして「こんなん学部の学生の方がよく知っている」と、まるで学校で習ってからずいぶんと日が経つから、間違えたのは当然だと言わんばかりに、学生部屋から逃げるように出て行ってしまった。

流体力学では、最初に流体の運動方程式を習う。そこには、必ずどの本にも偏微分∂/∂tと常微分d/dtを使った式が出てくる。教授は学生に「流体力学」を毎年指導しながら、偏微分と常微分の意味が分からないというのは、信じられないことだった。大きなショックであった。たいして予習もしないで、授業をしていたのか。
 さらに、あいまいな知識で判断するとろくなことはないのだから、なぜ常時手元に数学書を置いておかなかったのか。二人とも、私の数学書でやっと確認したといういい加減な研究姿勢には驚いた。

「理論をしたい」とわざわざ研究室変更をした意味がない。一人で勉強するのなら大学院に進学する必要はない。大学をやめようと思ったほどである。以降、理論について一度も教授には質問をしたことがない。


 もしかしたら、最初から理論の指導ができないにもかかわらず、私の研究室変更を受け入れたのではないか。責任感が希薄な性格ではないか。さらには、研究者として必須の、何が分って何が分らないのかを峻別する能力に欠けているのではないか、かすかな不信感を抱いた。
 

 以降、西本さんは、「ケチを付けられるから、今後君には見せない」と言って、黙々と理論の構築に専念した。その後、2月に論文をまとめる時期になって、結局、理論が構築できなかったということで、にわか作りの実験をして2週間ほどで、修士論文を完成してしまった。 

3月 深まる不信

修論発表会で、西本さんの論文審査責任者の赤川教授から「ノズルから測定物体までの、実験説明上の基本的な長さが抜けている」、「定常か非定常現象か、どちらを扱った論文か分らない」という根本的なミスを指摘された。この間、指導責任のある木村教授は、会場の中ほどの席で、うつむいて、黙ったまま頭をかいていた。
 会場を埋め尽くした学生や教官は、「中学生の夏休みの自由研究程度でも修士論文とし出せるのか」とあ然としていた。


 結局、未完成論文と処理され、追加実験をした後、正式に修論として承認された。西本さんは助手として引き続きこの研究室に残ることになった。
 

春休み、学生部屋で私自身の修論のテーマを思案していると、木村教授が入ってきて、「(西本さんの論文について)こんなの初めてや。私の言う通りにすれば大丈夫だ」と、わざわざ言いに来た。

しかし、「ノズルから測定物体までの、実験説明上の基本的な長さが抜けている」との赤川教授の指摘から分かるように、木村教授は西本さんの修論を精査していない。職務怠慢だ。


 それに西本さんが、前述のように偏微分も常微分もごちゃまぜレベルの数学力で新理論に無謀にも挑戦しようとしているのだから、本来は計画的に修論の進行状況をチェックし助言をすべきであった。
 もしも理論化が無理なら、どのような実験をさせるか。そのためには修士論文提出期限から逆算して、いつまでに結論を出すべきか。このような計画を練るべきであった。それを怠った。
 このように、指導の計画性がこの教授には欠落している。


 未完成論文事件は、木村教授の指導上の怠慢が原因であって、西本さん一人の責任ではない。「私の言う通りにすれば大丈夫だ」と言われて、教授の言う通りにすればとんでもないことになる、とますます不安になった。
 また、教授は「こんなの初めてや」
と言い訳をするが、同じ学生が同じ研究を繰り返すことはあり得ない。常に研究は「初めての課題を初めての学生が挑戦する」ことになる。初めてだから指導を間違えた、というのは幼稚な言い訳に過ぎない。教授が怠慢か無能なだけだ。


 実は教授は、普段たばこを吸っておいて、寒さのために2月の1か月間、持病の喘息のため、毎年大学に出てこない。2月と言えば、卒業論文の仕上げで最も重要な時期だ。「この結論を書くには、こんな追加実験がいる」というような指示をするものだ。しかし、休んでいては卒業論文の指導ができない。明らかに自分の責任を学生に転嫁している。前述の「電卓ミス責任転嫁事件」を彷彿させた出来事であった。 

理論の指導能力といい、今回の西本さんの卒業研究の指導といい、若くして教授になった新進気鋭の研究者というイメージは、「羊頭を掲げて狗肉を売る」という口先だけの張子の虎ではないか、と不信を深めた。とんでもない研究室に入ったものだ、と悲しく不安になった。
 

2 修士課程2年(1972年4月~1973年3月) 

4~5月 蛍光体による高速気流の可視化法(以降、「蛍光体法」と略記)の提案

まず、超高速気流の測定方法について説明する。

衝撃波の発生しない音速未満の気流の測定法と違って、衝撃波の発生する超音速流では、測定器具を流れの中に挿入すると、そこで衝撃波が発生してその後の流れを大きく乱してしまう。測定器具を超音速流の中に挿入はできない。


 信頼できる当時の測定方法は、気流の密度による光の屈折率の違いを利用した方法である。物体に衝突した気流は圧縮され密度が大きくなる。この結果、圧縮された気流部分の光の屈折率がまわりの気流より大きくなる。この現象を利用して、超高速気流の状態を観測する。これをシュリーレン法という。当時はこの方法しかなかった。

世界中の無数の超音速流研究者から、新たな測定方法が考案されてないのだから、超音速流測定法の開発は難攻不落の要塞のようなものである。


 当研究室には修論の研究テーマは、自由に選んでもよいという雰囲気があった。しかしこれは学生にとって酷な話だ。「超音速流」と一言で言っても研究対象は無数にあり、その中から何を選ぶかが一苦労だ。なんとか選んだとしても、自分にできるかどうかの難易度が分らない。
 

 例えば、英語検定には「10分間簡易テスト」というのがあって、これを受けると、現在の学力と合格可能な英語検定級が分るようになっている。学生にとっても、研究室にとっても、初めて着手する研究に「10分間簡易テスト」のような便利なものはない。

さらに実験を伴う研究には、新しい装置が必要となる。その学生しか使わないような装置に国民の税金である研究費は出せない。例えば、新型のロケット模型を作ったはいいが、飛行性能を調べる風洞が予算不足のために、製作できなかった、ということになりかねない。


 やはり研究室としては、一定のテーマに絞って研究を続け、その間、装置をそろえ、研究の難易度の判断、学生の指導法についての蓄積を図る。こうして研究と教育を両立させるのが真っ当だろう。


 自由に研究テーマを選んでもよいという「無謀な」雰囲気の下で、西本さんが修論で手がけた気流の可視化を研究テーマに選んだ。みんなが切実に困っていることを選ぶ方が研究のやりがいがあるから、との単純な理由だった。

 今思えば、この頃は米ソの冷戦時代である。米ソは高速兵器の開発に国家の存亡をかけ、優秀な人材と潤沢な国家予算をを投入していたはずだ。その分野に、こんな単純な発想で研究テーマを選ぶなんて、狂気としか言いようがない。 

研究会(昨年度の反省で、研究室では週1回、研究の進捗状態をチェックするため、院生全員と教官が集まる「研究会」を設けた)で、超音速流の可視化のアイデアを次々と出した。細い紐を流れに垂直に通して測定するという幼稚な提案もしたりして、教授に「ちゃんと勉強したんか」と皆の集まった前で叱責される有様であった。

着想方法の練り直し

 

 機械工学出身者が水流の可視化を考える場合、真っ先にこれまでに習った機械工学の知識を総動員して考えるはずだ。そうすると、先人たちによって、すでに機械工学の分野は調べ尽くされて何も残っていないと考えるのが妥当だろう。 
 当時の水流の可視化法の一つに「水素気泡法」があった。これは、水の電気分解の際に、電極から水素の泡が発生する現象を利用したものだ。水流中に細線を張り、電流を流して水素気泡を発生させて、水流の様子を調べる方法である。このことから、高速流可視化のアイデアは、機械ではなく、電気や化学の現象の中に埋もれているかもしれない、と考えた。


 そこで超音速流の可視化に使えそうな現象はないかと、図書館にある電気の本を片っ端から調べた。放電現象、テレビのブラウン管の仕組み、レーザー発振の仕組みなどを読んだ。日を変えて3度調べた。日を変えた方が、別の見方ができるかもしれないからだ。
 当初、この調査には多くの時間がかかると思っていた。しかし、現象だけを調べ、理論や式は無視する訳だから、実際には、1回の調査に3時間ほどしかかからなかった。



 今この瞬間に、世界中で超音速流の可視化を考えている者が1000人いるとしたら、1か月ほど前に、細い紐を流れに垂直に通して測定するという幼稚な提案をした時の私の順位は1000人中900番位で、今では100番位になったかなぁ・・・・・・。もう少し頑張れば、10番位になっていいアイデアが出せるかもしれない。そう考えて、もう少し悪戦苦闘を続けてやろう、と耐えた。 

蛍光体法の発見

調べも尽きて、でも逃げずにまた考えるか、と粘った。誰もいない静かな日曜日の学生部屋で、防衛庁の航空技術研究所(当時)の論文を読み始めた。希薄気体の真空度の測定法が載っていた。


 電子線強度は気体密度が大きいほど減衰することを利用して、希薄気体の真空度を推定する方法であった(図表1)。まず、ガラス上に蛍光体を塗布する。次に、それに電子線を照射して、蛍光体を発光させる。この時の蛍光体の発光強度から希薄気体の真空度を推定するというものであった。
 

図表1 希薄気体中の真空度の測定法

  

この論文を読んでいる時だった。頭の中で、一瞬、まるで砂丘の砂が風で流される様に、ガラス面に塗布された蛍光体が飛ばされた様に見えた……(流体の専門書ばかり読んでいると、静止しているものでも流れに浮かんで見えるようになる)。そして動いた後には残光による軌跡が残った(図表2)。「蛍光体は何かに塗布して使用するもの」という当時の固定観念から抜け出し「蛍光体を混ぜて流すこと」を思いついた。思わず「これだ!」と心の中で叫んだ。「発見」の瞬間だった。
 発明・発見は夜、夢の中で起きるものと思って、枕元にメモ用紙をいつも置いていた。白昼に思いつくとは信じられなかった。

図表2 「蛍光体による流れの可視化」の着想



 本研究の具体的な想像図を示すと、図表3になる。この想像図が実現するように、これ以降、研究を進めることになる。

図表3 蛍光体による流れの可視化(想像図)

あらかじめ蛍光体を混入した気流の1点に電子線を照射する 

実現性の検証①……走査線掃引速度

翌日、図書室で電気の本を調べた。例として、幅50cmのブラウン管式テレビの電子線の掃引速度を計算することにした。テレビ放送では、1秒間に30画面の映像を送信している。さらに1画面の映像は細い525本の横線(「走査線」という)に分解して送っている。これをもとに計算する(図表4)。

 走査線掃引速度=50cm×(525本/画面)×(30画面/1秒)= 7,875m/秒


マッハ数=(7,875m/秒)÷(摂氏20度での音速340m/秒)=23

マッハ数23! なってこった! テレビのブラウン管の中ではとんでもないことが起こっているのだ。

見方を変えると、テレビでは、7,875m/秒で右から左へ流れるブラウン管面に、電子線を当てて、ブラウン管の運動の軌跡を表示しているようなものである。

図表4 実現性の検証①:走査線掃引速度

実現性の検証②……蛍光体の密度・粒径

ブラウン管内での7,875m/秒という速さでの可視化は、当研究室にとって、十分余裕のある速さである。第1関門突破というところだ。この関門が突破できなければ、その時点で、このアイデアはアウトになる。ハラハラしながら、危ない橋を一つ渡った。


 しかし、これだけで研究に着手はできない。着手したはいいが、致命的な問題にぶつかるとも限らない。蛍光体を混ぜた超音速流を思い浮かべて、隠れた問題点を考えた。
 高速気流がロケットの先端にぶつかる。空気より密度の大きな蛍光体は、超音速流からずれてロケットの先端部分に付着する。これでは超音速流は測定できない。蛍光体の密度を調べておこう。


 蛍光体の密度3.7g/mlは、空気の密度0.001293 g/mlよりもはるかに大きい。これでは無理かと思った。
 しかし、粒子サイズが小さいので、たばこの煙と同じような挙動をすることが、粉体工学専門書で確認できた。 


 蛍光体の粒子サイズ:1.6~7.1(μm )。鮮明なテレビ画像実現のために、メーカーは蛍光体の粒子サイズを極小まで加工し、かつ粒径を均一に仕上げている。流れの可視化にとって好都合だ。(参考:粒子サイズについて、大気汚染物質PM2.5は2.5μm、スギ花粉は約30μm、たばこの煙0.3μm)

 第2関門突破というところだ。ハラハラしながら、二つ目の危ない橋を渡りきった。 

実現性の検証③……蛍光体の混入密度

さらに、隠れた問題点を念のために考える。研究途中で壁にぶつかって、挫折することは何としても避けたい。


 気流に多くの蛍光体を混ぜると、気流の性質が変わる。気流ではなく「蛍光体流」となっては困る。したがって蛍光体の気流への混入密度を調べる必要がある。「蛍光体のブラウン管への塗布量」を本で探したがない。


 そこで、図書室の埃っぽい書庫に入って、電気学会の論文を片っ端から調べた。ついに見つけた。「テレビのブラウン管に塗布する蛍光体の最適厚さは、1.3層である」というおあつらえ向きの論文だ。(例えば、密度:4g/ml、粒子分布サイズ(μm) 4.0であれば、4.0×1.3層=約5.2μmの層になる。これより厚くても薄くても、テレビの映りは悪くなる)。蛍光体を空気中にほんの少し混ぜるだけでよさそうだ(図表5)。(実際の水流の可視化濃度は、コップに小さじ1杯の牛乳を入れたくらいの、限りなく透明に近い白色である)


 当初は、ブラウン管に塗布する蛍光体層はもっと分厚いのではないかと予想していた。しかし、蛍光体層が分厚いと、層内で蛍光が乱反射して、テレビ画像は鮮明にはならない。薄くても高輝度の蛍光体を開発した蛍光体製造会社に感謝しなくてはいけない。
 こうして、なんとか三つ目の危ない橋を渡りきることができた。 

         図表5 実現性の検証③:蛍光体の混入密度

図表5に示すように、「蛍光体のブラウン管への塗布量」を水路幅200mm=200000μmに当てはめると、この水路幅に対する蛍光体層10μmの割合は0.00005である。蛍光体混入による水や空気の密度変化は無視できそうだ。


 今後想定外のことがあるかもしれないが、蛍光体を気流に混ぜて、それに紫外線あるいは電子線(電子線は通常の空気や水は透過できないが、希薄気体なら透過する)を当てて可視化するための3条件(走査線掃引速度、蛍光体の粒径・密度、蛍光体の混入密度)を幸運にも乗り越えた。どれ一つとして不合格なら高速気流の可視化はできない。鮮明なテレビ画面を実現するためのテレビ用蛍光体の条件が、偶然にも流体可視化条件と一致していたのだ。まるで、太陽・水星・金星・地球・月が一直線にならんだ天体ショーを見るようだ。
 これまで他人の論文を読んだとき、もっとうまい方法はないかと思案しても、たいていは第一関門で挫折していた。第三関門まで突破した経験は初めてだった。私のような者にもこのような幸運が訪れるのかと信じれなかった。


 この3条件を満たせたことから、低速気流なら可視化できると確信した。低速でも可視化できれば、これを足掛かりにして、少しずつ気流速度を上げて可視化できなくなったところで、その原因を見つけて解決していけば、いつかは超音速流の可視化が可能になるはずだ。この確信は、蛍光体によるブラウン管内での7,875m/秒という速さでの可視化、という事実から生まれている。


 以上の「蛍光体による流れの可視化」のアイデアと3つの実現性の検証を定例の研究会で発表した。
 

「これを、待っていた!」
 木村教授にえらく褒められた。特に、「蛍光体の粒子サイズが小さいので、たばこの煙と同じような挙動をするデータはとても良い」と高評価であった。これで修論テーマは「蛍光体による流れの可視化」に決まった。
 以降「君のいいところは、問題点をみつける点だ」と言われるようになった。それは小学校の時に、工作図鑑を読んで工作に夢中になって、自然に身についてしまった。新しい工作に取り組んだのはいいが、うまくいかないことが多かった。作る前に問題点を予測し、複数の工作手順を発案、比較する癖がついた。


 大切なことだが、もしテレビ用ブラウン管が実用化される前に、同じ蛍光法を思いついたとしても、流体の可視化に適した、微細な・均一な・高発光率の蛍光体が存在しなかっただろう。
このように研究の着手には タイミングというものがある。以前には実用化できなかったアイデアが、現在の科学技術で可能になることがある。日進月歩の科学技術の定期的な調査が欠かせない。

 創造性とは

ところで、「蛍光体による流れの可視化」の着想は、当時、流体の研究者・学生なら誰でも可能な状況にあった。就眠時に蛍光灯を消すと、しばらくは蛍光のために蛍光灯が薄く光っている。このとき、プルスイッチ(ひもを引くことで作動するスイッチ)の放し具合で蛍光灯が揺れることがある。この光の揺れこそが蛍光灯の運動の軌跡を示している。言い換えると「蛍光体による蛍光灯の運動の可視化」である。


 「創造とは、既存の物の新しい見方・考え方である」という好例である。普段から、「ちょっと変わっている」と言われるような、周りの人とは異なった発想を繰り返ししてきた成果だ。(このために、勉強している割には成績は良くなかった。でも、私自身はこのことをあまり気にはしていなかった。研究者になりたい一心だったから)


 しかし、着想から実現性の証明には次のような二つの壁がある。


 一つ目は、せっかく着想しても、「いろいろと専門外の分野を調べるのはしんどいからやめた」である。この壁を乗り越えるには、専門外の分野でも理解してしまう学習能力(数学・物理・英語)を普段から鍛えておく必要がある。


 二つ目は、「この程度のことはきっと誰かがすでに考えているだろう。それが今存在していないということは、おそらく実用化困難な問題があったに違いない。だからやめておこう」である。この壁を乗り越えるには、無駄だと周囲に言われることでも、万が一の可能性に賭ける愚直さがいる。


 結局、研究者には学習能力と愚直さの相反する能力がいる。寺田寅彦は『科学者とあたま』(寺田寅彦全随筆集4 1992年、岩波書店)という随筆の中で、「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない……。一方で科学者は頭が悪くなくてはいけない……」と述べている。
 この二つの相反する能力は、「好奇心」で培われるものだろう。学校で習っていない分野でも、好奇心を持って、だから、何度でも文献を読み直すことができて、最後には自力で習得して、研究に活かすことができる。そして、いつでもどこでも同じことを考えるうちに、ふとよい考えがふと浮かぶことがある。無駄だと周囲に言われることでも、好奇心があれば続けられる。好奇心は研究者にとって大切だ。


 

6~7月 研究方針の対立

蛍光体法の発表後しばらくして、階段や廊下、トイレなどで一緒になったとき、教授から次のようなことを断片的に言われた。


「京大の知人が『できる』と言っていた」
 できる・できないを、自分で判断できないのか・・・・・・。


「(神戸大工学部に)博士課程があれば、君に行ってもらうのだが」


「本が1冊書ける」
 だれが書くのか。私の書かせるのだろう。


「研究費は、どこからでも持ってくる」
 この発言は、ハッタリだと後でわかる。


「日本人は平均ではレベルが高いが、ずば抜けたのはいない」
 この言葉は、たしか1973年にノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏の受賞前の発言だ。ノーベル賞を意識しているのか!と驚いた。
 (注:「物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学がノーベル賞の対象分野である。従って、流れの可視化研究は対象外である」とのご指摘が、読者からされた。ご指摘ありがとうございます。)
 それにしても、ノーベル賞の対象分野の確認を怠り、危なっかしい判断で学生を指導する教授。大丈夫か。失敗したら、その責任を学生になすり付ければいいという気楽な立場にいるからか。


 まるで、この研究は楽勝だ、と言わんばかりであった。順調にキャリヤを積んだ奴やペーパーテストの点がいい奴は、威勢のいい意見を言いがちだ。
 アイデアの段階でこんなに夢を見ていいのか、研究を進めていくと何が起こるかわからんぞ。取らぬ狸の皮算用だぞ。


 しばらくして、教授から、いきなりガンタンネル(図表6)で電子線を使った超音速流の可視化研究を要求された。


              
図表6 ガンタンネルの例         
 
①高圧筒 ②第1の膜 ③中間筒 ④ピストン ⑤第2の膜 ⑥極超音速ノズル⑦模型 ⑧測定筒

ガンタンネル(自由ピストン型高温衝撃風洞)の作動原理
①高圧筒の一端は②第1の膜で閉じられ、他端は開いている。
  使用時は開いている他端から高圧窒素を供給する。
②第1の膜はアルミ板で作られている。一定の高圧になると自然に
  破れて、高圧窒素を③中間筒(空気が封入)に吹き出す。
④ピストンは、この吹き出された高圧窒素によって、右方向へ高速加速
されて、衝撃波を発生する。この衝撃波は⑤第2の膜と迫ってくるピストン前面との間を往復する間に、封入されていた空気を高温高圧化する。
⑤第2の膜は適当な圧力になれば破れるように、セロテープを貼り重ねられている。
⑥極超音速ノズルによって、高温高圧流が生じる。流れの一様な測定範囲は、例えば直径30mmなどと狭い。
⑦模型(被測定物体)
⑧測定筒内は1㎜Hg以下に減圧されている。減圧下では音速は小さくなる。マッハ数=流速÷音速、だから音速が小さいので、マッハ数20に達することがある。



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電子線を発生させる電子銃の製作、ガンタンネルに蛍光体を混入する方法の開発、実験するたびに装置内に付着した蛍光体を掃除する煩雑さ、有害なカドミウムなどの重金属から成る蛍光体を吸い込まないようにするための防護方法など、はるかに私の能力を超えている。時間的にも無理な話だ。卒業までに残り9か月しかない。
 西本さんのときと同様に、計画性がこの教授には欠落している。



 一方私は、前述の電子線を発生させる電子銃の製作、ガンタンネルに蛍光体を混入する方法の開発、実験するたびに装置内に付着した蛍光体を掃除する煩雑さを避けて、易しい実験から難しい実験へと基礎データを積み上げていく方法をとり、まずは通常の気流に紫外線を照射して可視化する研究方針を主張した。これをこの教授から「理学部的だ!」と批判された。


 本来なら、いきなり難しい研究をしようとする学生に対して、「回り道のようでも、基礎から順に積み上げていく方法を取りなさい」というのが教育者・研究者ではないのか。
 例えば、1955年に糸川英夫博士らによって、固体ロケット開発が始められた。最初に全長230mmのペンシルロケット作って、尾翼の取り付け角度や弾頭の重量など基礎的なデータが収集された。推進力に火薬を使用するので、安全面にも配慮して全長230mmという超小型からのスタートだったのだろう。糸川英夫博士ほどの人でも、この慎重さだ。


 一発で成功するという保証はない。失敗したときに何が原因で失敗したかつかめない。あれこれと、もたづいている間に、有害な蛍光体を多量に吸い込む恐れがある。研究や学生の健康をなめとるんか。失敗したら、やり直しを学生に命じればよいと、軽く考えているんか……。


 志摩半島に親睦を兼ねて、研究室で7月に2泊3日の海水浴に行った翌日、教授と私が研究方針の違いで学生部屋で激論した。取り囲んで聞いていた学生・教官はあ然としていた。せっかくの親睦ムードが吹っ飛んだ。


 教授に対して、学生のくせにどこからこんな確信めいた発言、態度が出てくるのか、研究室の学生は半ばあきれたようであった。「今は教授のいう通りにして、こっそりやればよい」と言う学生もいた。教授と学生、お互いが疑心暗鬼になるので、こっそりは良くないと、筋を通した。


 結局、頑強に自説を曲げなかった私の、通常の気流に紫外線を照射して可視化する研究方針が採用された。


 ただし、条件として、通常気流の可視化のデータから、電子線を使った超音速流の可視化を予測することを求められた。しかしこれは難問だ。と言うのは乱流状態では、流速と可視化との間に比例関係が成り立たちそうもないからだ。相変わらず無茶な要求だ。
 木村教授は本当に流体が分って言っているのか疑問だった。しかし、通常気流の可視化さえ成功すれば、適当な予測でも「予測」したことには違いないと気楽に考えて、了解した。
 実際、水流の可視化が成功したとき、超音速流の可視化の予測の話は、教授の口から一切出なかった。自身の「無茶な要求」が間違っていたのが明らかになってばつが悪くなったからだろう。謙虚な先生なら、「無茶な要求」とわかった時点で、私に誤り、研究テーマから外して、他のことに集中できるようにするはずだ、と思うのだが、この教授は自分に不利なことはしない。


 私の研究グループには、4年生の川崎君と遠山君の二人が配属された。

元工作少年

自説を曲げなかった理由は次のような体験からきている。小学4年生の時、学校で理科「電池の働き」を習った。ずいぶん興味を覚え、父親にせがんで「工作図鑑」を買ってもらった。近所にできた電気屋のごみためにあった古い電池や電線を拾い、親戚の下駄屋からの材木の切れ端で、この図鑑に載っている工作を1つずつ完成していくのが楽しみであった。(当時このような工作好きの少年時代を過ごした学生は、機械科には多くいた。戦後の復興期に当たり、工業生産が大きく伸つつあった時代だ)


 単なる工作にすぎないと思われるかもしれない。しかし、材料がすべてそろうことはまれで、代用できる他のものを探したりするときには、創造性が養われる。中3の夏まで工作に熱中していた。おかげで、夏休みが明けたら受験勉強から大きく取り残されていた。


 簡単そうな工作でも、やってみると意外に難しいということが多々ある。研究者の技術・能力は少しずつ進歩するのだから、容易なものから難しいものへと研究を進めるのが重要だ。これを体で覚えている。


 私の修論の末尾には、参考文献として、加藤・荒・神力著『創造工学による研究・開発』1969年、鹿島研究所出版会」を挙げている。研究手順の参考にしていた。さらに言えば、福井大の卒業研究で岡田庸敬先生に「これを言うためには、もっとデータをそろえる必要がある」など、厳しく指導されていた。蛍光体法で、問題点を挙げ、データを探して説明できたのはこの時のおかげだ。


 
このように、木村教授に反論するだけの経験と知識をすでに持っていた。


8~12月 気流の可視化の厚い壁

 蛍光体は大日本塗料(株)から、テレビのブラウン管用を無料で調達できた。


 次に、紫外線ビームがなければ何も始まらないので、スライド映写機を参考にして、紫外線ビーム発生装置を設計した(図表7)。光源には、紫外線を多く出す東芝の理化学電球(水銀灯)を使った。紫外線ビーム発生装置の良し悪しが可視化の成否に直結するので、何度も見直した。研究室に光学の分かる人がいなかったので、理学部や教養部に出かけて聞いて回った。
 この電球は点灯時、素手で触れないほどの高温になる。さらに、装置全体を遮光のため、アルミフォイルですっぽりと包んで使用する。このためますます高温になる。実際、スライド映写機には空冷ファンが回っている。レンズや電球が割れないか不安であったが、装置が複雑になるので省いた。このような孤独な決断をしながら図面を仕上げた。


 私の設計通りに発注することになったのだが、空冷の問題を指摘しなかった研究室員に不安でもあった。誰も知らんのか、これではノーチェックと同じではないか、研究会の意味がない、と指導に不信感を持った。


 ある日、助手の一人が同じ水銀灯光源を使って高速気流の写真撮影を試みた。強い紫外線を出すので肉眼での直視は失明の恐れがあり、厳禁であるが、誰も注意するものがおらず、帰宅後夜中に目が痛くなって救急車で病院に駆け込んだという事故があった。
 一方、私のグループは、幸い注意書きを読んでいたので、紫外線吸収力のあるプラスチックの下敷きで光をさえぎりながら実験して、事故を免れた。もし川崎君と遠山君にこのような事故が起こっていたら、可視化の研究の続行はなかったかもしれない。危ないところだった。
 注意書きなどの文献をしっかり読んで実験しないと事故にあったり、失敗してしまう。教授らを頼らず、緊張感を持って研究を進めなければと、気を引き締めた。


 私達のグループが、下敷きで光をさえぎりながら実験しているのを見て、他の学生は、「何をあいつらは大げさに」と冷ややかな目で見ていた。助手の事故があって、「結構あいつらは、まともに研究を進めているようだ」という評価を受けたようだった。
 また、7月の志摩半島親睦海水浴の翌日の教授と私の激論以降、私との距離をおいていた川崎君と遠山君からの私への信頼も、助手の事故の後で増したように思った。
 

図表7 紫外線ビーム発生装置

  (光源には、紫外線を多く出す東芝の理化学電球(水銀灯)を使いレンズには紫外線をよく透過する石英ガラスレンズを用いた。光軸をあわせるために、レンズホルダーは全て外径を均一にして等辺山形鋼の上に乗せた)


 蛍光体についても調査を進めた。化学工学科井上嘉亀教授と電気工学科坊博教授は、共同で蛍光体の製作とその電気的性質を研究したことがあると聞いた。面白い研究するんだなー」と坊博教授から言われた。いろいろと教えていただいた。


 何事も初めての経験で、しかも木村教授の方針に逆らっての研究なので、精神的な重圧で食事がのどに通らなかった。歯を磨こうと歯ブラシを口の中につっ込むと、ゲロしそうになった。「こんなのできるわけない」と桑田技官に言われた。周りもそういう目で見ていた。一番しんどい時だった。


 紫外線ビーム発生装置用の石英ガラスレンズの発注から納品までに2カ月ほどかかるので、すでに研究室にあった水銀灯光源を使って、試しに水流の可視化実験をして時間をつぶした。蛍光体を水に浸けるのは本来の使用法ではない。企業もこのようなデータは用意していなかった。幸いにも、蛍光体を1週間水に浸けても発光性能は保たれていた。低速水流の可視化実験は成功した。これで気流の可視化を失敗しても、水流の可視化で修論は書ける。精神的に余裕ができた。


 勉強の方もはかどり始めた。雲をつかむような話から、実験装置を作り、具体的な問題に取り組み始めて、問題点を絞った勉強に変わってきた。
 蛍光体、粉体工学、光学。この3つの分野を何度も読んだ。まず、概論的な本を読んで、蛍光体法に関係しそうな分野を探し出し、次にこの分野を丁寧に読んだ。常に頭の中に現象のイメージが浮かぶようになるまで、反復した。さらに、できるだけ実験をして、思考と実験のずれを検証し、思考力を鍛えた。

 

  紫外線ビーム発生装置ができて、いよいよ気流の可視化実験に取り組んだ。有害なカドミウムから成る蛍光体を吸い込まないようにするため、回流型の風洞をアクリル板で作り、ファンは廃棄掃除機のものを転用した。気流に蛍光体を混ぜ、その濃度をいろいろ変えてみたが、うまくいかない。
 原因を探ろうにも、いきなりの成功を求めようとして、基礎データの蓄積を怠ったからだ。何よりも厄介だったのは気流に混入した蛍光体がアクリル板に付着して、紫外線照射の邪魔になり流れが撮影できなかった。


 そこで、これまで断片的に水流の可視化実験で集めたデータを分析して、気流ではうまくいかない原因を探ることにした。水流と気流でのレイノルズ数を計算した。「乱流拡散」が原因ではないかと、この時から意識し始めた。
 乱流拡散とは次のような現象をいう。青空を見上げるとジェット機の後方に飛行機雲が空を二分するように延々と続いていることがある(図表8)。ジェットエンジンが周囲の空気を吸い込んで、圧縮・燃焼させ、300~600℃となった排気ガスを出すと、その中の水分が急に冷やされて凍り、雲となって白く見えているのだ。
 ところが、上空の風が強い日には、飛行機雲が全く見えない。目を凝らしてみるとジェット機が、点として動いているだけだ(図表9)。飛行機雲が乱流拡散されたためだ。乱流拡散が生じると排気ガスのような微粒子は爆発的に拡散する。



図表8 飛行機雲             図表9 飛行機雲なし               

             
    
           ↑飛行機はここ                      ↑飛行機はここ
 

  神戸大工学部は六甲台と言う高台にあって、眼下には大阪湾が広がっている。臨海部に当時、「小泉製麻」と書かれた高い煙突があって、年中煙を出していた。まっすぐ立ち昇ぼる日もあれば、強風で煙が見えない時があった。この例を挙げて、乱流拡散現象の凄さを研究会で説明しても、無視された。

蛍光体による健康被害の懸念

 気流の可視化実験をするとき、閉鎖型の回流風洞でも多少外部にもれる。使用する蛍光体の中には、亜鉛、カドニウム、銅などの重金属で作られた有毒そうな物がある。しかも、粒径が小さい。通常のガーゼマスクでは透過して、肺に吸い込んでしまう。有害な重金属が直接肺壁に付着する。「健康被害の恐れがあるから、ちゃんとしたマスクを用意してほしい」と懇願したが、無視された。学生はボルトやナットのような、壊れたら取り換えればよい部品なのか。
(このように学生を消耗品扱いすることを、「兵隊」と、教官仲間では言うのだそうだ。読者の方から教えていただいた)


 木村教授は、卒業研究指導の大事な毎年2月に、自身の持病の喘息のために大学に出て来ない。、要するに、学生の指導よりも自身の健康を優先している。一方、今回のマスクの一件では、私達学生の健康よりも研究成果を優先していることになる。学生軽視に腹が立つ。
 

1~2月 水流の可視化の成功 

気流の可視化に失敗し続けたところで、1月の初旬、今後の研究方針について、教授と話し合った。


 昨年度の「未完成修士論文事件」のあとで、機械工学科の教官の中には、二度とこのようなことを引き起こさないために、3月の修士論文発表本番前に予備発表会を開催しようとの意見があった (しかし実際はなかった) 。弱冠36歳で教授になったことへの当て付けもあったのだろう。
 したがって、教授には、当研究室で再度の「未完成修士論文事件」は避けなくてはいけない、との追い詰められた事情があった。


 教授 「こらからどうするんや?」
  まるでワラをもつかむ思いで・・・。


 私  「水でやります」
  教授は、ほっとした様子で・・・。おそらくどうしたらいいのかわからなかったのだろう。

 こうして水流の可視化に、以前のような批判も反対もなく、あっさりと取り組むことになった。
 しかし、実験できる期間は2カ月間もない。実験器具を発注しても1カ月以上かかる。今ある器具を使うしかない。ポンプの発注はあきらめ、吹き抜けの2階に水タンクを設置して、ここからホースで1階に設けた可視化装置に、蛍光体を混入した水を落とす自然落下式可視化試験水槽を採用した(図表10)。
 紫外線発生ビーム光源である水銀ランプが割れてしまうと実験が中断するので、予備の同じランプを買ってもらい、万一の場合に備えた。

 これ以降、3月の修論完成までが、一番研究成果の上がった期間であった。木村教授が喘息で大学を休み、研究の邪魔がなくなって、思う存分に実験できた。後年、研究生としてこの研究室に戻った理由の一つは、この時の教授不在の充実した研究生活が気に入ったからである。決して、木村教授を慕って戻ったわけではない。むしろ余りにも頼りなくて、他の研究者に先んじられる恐れがあるから戻ったのだ。これが理由の二つ目だ。
 
 
 時間的に、一つの失敗も許されない。極度の緊張の中で実験を行った。枕元には紙と鉛筆を用意して、いいアイデアが思い浮かんだ時はいつでも書き留められるように準備した。このため睡眠中でも気は休まることはなかった。ノイローゼになる寸前状態が続いた。

 

図表10 自然落下式可視化試験水槽



可視化部には、安価で加工しやすいアクリル板を使った。しかし、アクリル板は可視光線を100%透過するが紫外線はほとんど透過しない。そこで、板厚は最小の1㎜を採用した。この選択は危ない賭けであった。


 装置内の流れ具合を調べるために、蛍光体を混入した流れに紫外線を当てて、流れを可視化すると、流れの状態が手に取るようにわかった。装置内には渦がたくさんできていて、乱流であった。そこで、流路に整流格子・網を挿入したら、渦が消えて、流速は小さくなった。測定部の円柱付近は一様な流れに変わった。「さすが可視化だ。これは便利だ」。このように流れが可視化出来れば、流体装置の開発は格段に楽になる。流体力学の知識も必要ない。これなら素人でもわかる。


 また、先に回流型風洞で気流の可視化できなかった一因は、流路に整流格子・網を設置しなかったため、乱れ強さが極めて高い気流になったからではないか。水流の可視化によって、これに気付いた。
 もう一つ気づいたのは、回流型の風洞を設計したときに、だれも流路に整流格子・網の設置を提案しなかったことだ。風洞への整流格子・網の設置は基本中の基本ではないのか。誰も知らなかったのなら木村研究室は「素人集団」だ。相談しても意味がない。他の研究室の先生に聞き回ったり、自分でとことん考えたり調べるしかないと気づいた。
 木村教授は高速気流が専門だ、と聞けば、誰でも低速の水流や気流は当然熟知しているはずだと思いがちだが、 そんなことはないらしい。

層流の可視化

円柱を矩形断面水路内に挿入する前に、可視化が簡単な層流域で、写真撮影をした。写真フィルムは「カラーより白黒の方が感度がいい」という写真部所属の川崎君の意見に従い、当時市販されている最高感度の白黒フィルムを使った。見栄えよりも成果を優先した。


 水中での蛍光体の沈降速度を測定したら3.6~3.8㎜/秒であった。そこで、流速を100㎜/秒、蛍光体沈降速度5㎜/秒、流れを層流と仮定した場合の想像図(記憶による)を示すと図表11のようである。まるで定規で直線を引いたような、美しい一直線の約30cmの水色残光軌跡を示した。これは、蛍光体メーカーが、鮮明な画面を追及して、蛍光体の大きさを極限までに小さく、しかも均一に作ってくれたおかげである。仮に蛍光体の大きさにバラつきがあれば、沈降速度にもばらつきが生じ、このような鮮明な一直線の残光軌跡を示すことはない。


 一直線の鮮明な水色残光軌跡を見て、何度も夢の中で恋い焦がれた未知の彼女にやっと出会ったような気持であった。「恋は水色」とはこのことか…。
 

図表11 層流域一様流の流れの可視化(記憶による)


臭いものには蓋事件

実際に写真は撮ったが、「沈降速度の影響などという不利なデータは発表するな」という木村教授からの指示のため、修士論文への掲載ができなかった。これは、不利な現象も正直に報告するという研究者のモラルの点で違和感があった。さらに、不利なデータの中に、研究の壁を突破する重要なヒントが隠されていることがある。失敗した時のデータを残さなければ、引継いだ研究者はまた同じ失敗を繰り返すことになる。実際に、これが起こった。データ隠しは絶対にやってはいけない。木村教授の研究手法にはついて行かれない。

 水流に蛍光体という異物を入れるのだから、沈降速度がいくらぐらいあるかというのは、誰でも知りたいはずだ。沈降速度を発表しないほうがおかしい。発表できないほど大きすぎて、あえて発表しないのだろうと勘繰られる。
 
 確かに実際の流れとのズレという「不利なデータ」には違いがないが、そのズレは微々たるものであり、問題はない。例えば、プラスチックの射出成形時の充填状態の可視化では、水と違い、粘性が大きいので実際の流れとのズレは小さくなる。


 もしかしたら今回のように、私に当然伝えるべきことを、教授の都合で秘密にしていることが色々とあるのではないか、と教授への不信感が募った。これを「臭いものには蓋事件」と名付け、今後の引用にしよう。

乱流の可視化

次に、流速を少し上げて、乱流域で写真撮影をした。(図表12,13)

          図表12 乱流の流れの可視化写真例
           

           

図表13 流速の変化による可視化の状態



図表13を見ると、流速30.8cm/秒を基準1倍にして、1/2倍、 3/4倍、 1と1/4 倍、1と2/4倍と増加させると(流速が大きくなるにつれて)残光は長くなる。また、流速が大きくなるにつれて乱流強度も大きくなり、丸くぼやけた雲状域が大きくなる。(以上の現象をさらに研究すれば、乱流強度の測定法を提案できるだろう)。


 雲状域の形状は、流速が増すにつれて円形から下流側に伸ばされた楕円形へと変形している。この結果、流速を上げると、流線が短くなり雲状域に入り込んで鮮明な流線が撮れなくなるだろう。


 写真の感度よりも、肉眼の感度の方が優れている。写真では白くぼやけているが、肉眼で見ると、オタマジャクシの細い尾が、小刻みに激しく揺れていた。これをシャッター時間分合成したものが雲状域である。雲状域の広いものは乱流の強度大を表し、狭いものは強度小を表している。


 ピンポイントの場所での流線を測定するには、雲状域を小さくできるレーザー光を使えばよい。当時、株式会社金門光波製のHe-Cdレーザー装置が60万円だった。
 

円柱まわりの流れの可視化

流れが曲がる時、遠心力のために密度の大きな蛍光体は水流とずれる。このずれ具合を測定したのが円柱まわりの流れの可視化実験である(図表14)。理論計算上の流線と写真とのずれはなかった。
 実は、何度理論計算しても、計算機がエラー表示した。どこが悪いのか調べても分らない。この時に、市販書の理論式に間違いを見つけてくれたのは修士1年の中畑君であった。まさか専門書が間違っているとは夢にも思わなかった。彼はいい研究者になれるだろう。権威を疑うことができる。

図表14 円柱まわりの流れの可視化写真例

 流速130mm/秒、水温10℃、蛍光体濃度9.23× g/㎤、円柱外径19㎜、
 シャッター速度3秒



流速測定の成功

 このような水流の流線の可視化は、水素気泡法などでもよく報告されていた。水素気泡法と同じ土俵で成果を競うのではなく、蛍光体法でしかできない測定、「これこそが蛍光体による流れの可視化だ」と他の方法では不可能な、独創的な成果を発表できないものか、と思案して撮ったのが流速測定だった。
 論文の提出期限が迫っていたので、川崎君と遠山君の二人に、これが最後の実験にするからと、頼み込んで行った。幸い、失敗することなく、1回で成功した。これで世界に打って出られるぞ。「やったー」とガッツポーズをした。

           図表15 蛍光体を使った流速測定法

図表15に示したように、上流のA地点で蛍光体を混入した流れにビームを当て発光させる(太陽印)。同時に、このビームの透過光を2つの鏡で反射して受光機(光電子増倍管)に届ける。この時の信号をトリガーとする(点線矢印)。
 さらに、発光しながら下流に流れてきた蛍光体の光(太陽印)を、B地点で同じ受光機で受ける(実線矢印)。A―B地点の長さをこの受光時間差△t(図表16)で割れば流速が計算できる。

 △tは、左側に表示されている光電子増倍管の出力が120ヘルツ(光源である理化学電球には60ヘルツの交流が印加されている。しかし、この電球には極性がないので120ヘルツで発光する)のパルス波形であることを利用して、比例計算できる。(図表16)。しかし、このことに気づいたのは、このホームページを作成してからだ。当時はストップウオッチで測定した。

 

図表16 流速測定したときのブラウン管オシロスコープ写真





 

 あと1週間あれば、本当は、もっとすごい実験がしたかった。ビームを1秒間隔のパルスにして、流れに照射する。点線状(ー - -)の発光帯が流れる。間隔の変化から流速変化が読み取れる。流線と流速の同時測定だ。
 これを学会で報告すれば、流体機械内部の、例えば運転中のポンプの羽と羽の間の、流れの様子を測定できる可能性を示すことができる。さらに通常の気流も高速気流も可視化可能性のある伸びしろの大きな方法だ。流体の研究が大きく前進するはずだ。発表すれば、世界が驚嘆しただろう。
 木村教授の無謀で計画性のない方針のせいで、無駄に時間をつぶしすぎた。
 
 

3月 修士論文発表

1年前の西本さんと同様に、私の修論審査担当は赤川教授であった。その日は修論提出最終日であった。


 赤川教授の部屋に入ると、私の開けたドアに正面を向けた机上で書物を執筆中であった。やっと来たか、と待ちきれない様子だった。教授にはあらかじめ私の修論テーマは知らされていた。
 論文を手に取るや否や、ゴテゴテ書いた文章には目もくれずに、ページをめくって写真を探し出し「撮れてますねえー」、「どうしてこんな研究をしたんですか」と、興奮気味に質問された。超音速流の研究室が、なんでわざわざ専門外の水流の可視化研究をしたのか。しかも、我々が散々考えても思いつかなたったのに、こんな方法がまだ残っていたのか、という驚きようであった。
 私は、やっと期限に間に合った、と言う解放感が強くて、教授の質問にもろくに答えず、修論だけ渡して出て行った。


 修論発表会では、赤川教授から「高温の水でも可視化できますか」という質問が真っ先にあった。今にも自分たちの研究に使いたい、という切迫感であった。赤川教授の研究対象は、当時の高度経済成長に合わせて、増設されている原発・火力発電などで使用するボイラー内での、沸騰した高温の水と気泡が混じった流れ、いわゆる気液2層流である。赤川教授は気液2層流の権威であった。
 水と気泡が混じった流れはすべて乱流状態と言ってよい。理論化が難しい。したがって気液2層流の可視化法開発は、喫緊の課題であった。このような背景から「高温の水でも可視化できますか」という質問をされたのだろう。 

 修論発表会のあと、学科内の判定会議があり「君の論文がみんなの中で1番良いと言われた」と木村教授から報告があった。当時、松本隆一教授の燃焼工学研究室ではドップラー効果を応用した水流の流速測定研究をされていた。その先生からの好評価があったのだろうか・・・・・・。
 いずれにしても教授にとっては、昨年度の「未完成修士論文事件」の失態からの名誉挽回の逆転ホームランだったに違いない。



 この蛍光体法の評価としては、私は次の点を挙げる。
①実用可能な水流の、素人にもできる測定法
②従来出来なかったような、回転体内部の流れの可視化の可能性(翼 とパルス光を同期させることによる)
③水流・通常気流・超音速流可視化への発展性(レーザー光の高出力化による)
 私自身は、これだけでも十分博士号に匹敵する成果だと思っている。と言うのは、木村教授の博士論文を見たことがある。特殊な装置の改良に関するものであった。この装置を使っているところは当時国内の企業ではほとんどなかった。産業界に与える影響はほとんどないものだった。「これが博士論文か、ふーん」と思ったものだ。重箱の隅をつついたような論文だとの印象だった。

 同じ研究室の学生からは、「ついにやったなー」「プロの研究者だ」といわれた。斬新なアイデアを提案して、しかも指導をうける立場でありながら、教授の研究方針に異を唱えて、最後は成果を出したということに対してだろう。一方、教授を称賛する声は1つもなかった。
 「二期校にもすごいのがいる」。当時、大学ごとに行われた入学試験は、文部省により一期校と二期校の二つの区分に分けられていた。旧帝国大学が一期校に集中し、かつ組まれた日程との関係もあって必然的に一期校が第一志望、二期校は滑り止めという様相になり、これにより期別の大学群格差が序列化されるようになった。―ウィキペディアより引用。 


 教授から「空気では難しいのがよくわかった」といわれた。しかし、「私の判断ミスだ。遠回りさせて申し訳ない」という謝罪はなかった。よほど自分の責任を認めたくない性格のようだ。
 それに、「空気では難しいのがよくわかった」と今頃言うのはおかしい。無謀な研究目標のために私たち下っ端の3人は必要以上に振り回された。危険な蛍光体を吸う期間が不必要に延ばされた。
 能力ある研究者なら、自分の予測と少しでも反する結果になれば、直ちに原因を調べるはずだ。自分の非を認めるのに躊躇して、ずるずると方向転換する時期を遅らせた。


 さらに「(研究成果は)たったこれだけか」とも言われた。たったこれだけしか成果が出なかった第一の責任は、当初、ガンタンネルで電子線を使った超音速流の可視化という無謀な研究を要求して、研究の着手を遅らせた教授にある。自分の責任は棚に上げて、学生をしかりつける。責任転嫁もはなはだしい。むかつく。


 「空気力学」の授業での話。ニュートンが音速計算を間違えたというエピソードを、木村教授が笑みを浮かべて話した。さすがに、つられて笑い出す学生は一人もいなかった。私は「何を笑っとるんか」と冷めた目で見つめていた。  ニュ―トンほどの偉大な研究者を笑える者は一人もいない。例え間違ったとしても、当時としては学問のレベルが今より低く、間違いはやむを得ない事情だったのだろう。ニュートンを嘲笑することにより、自分の方がもっとすぐれているという印象を与えようとしているのか、と思うとその性格が嫌になった。能力がないくせに、大物ぶる。いやな性格だ。


 研究会での話。教授が「机の上にボイラー事故の配管を置き、やる事がローカルだ」と他の研究室の批判をしたことがある。たぶん赤川教授の研究室を指して言っていたのだろう。
 地元の企業の事故調査だからと言って、決してローカルだとは言えない。日本もいよいよ先進国の物まねから脱して、どの企業も社運をかけて世界と戦い始めた時期である。この時期、大企業には中央研究所が多く作られた。優秀な社員もいることだし、企業へいい加減な回答をすると、研究室のレベルを疑われてしまう。
 一方、木村教授のように「今やっている研究は世界的な研究だ」と言えば聞こえがいいが、超音速流なんかやっている企業はないから、地元の企業からの厳しい質問を受けることがない。馴れ合いでぬるま湯的な研究におちいりがちだ。
 他人の批判なんか誰でもできる。まずは自身が創造的な研究成果を出してから他人を批判すべきだ。それに木村教授よりも、赤川教授の方が勤務態度はまじめで、授業もよく練られた内容で、学生から人気がある。


 「(これだけの成果なら)阪大に行かれる」と言われた。(当時、博士課程は神戸大工学部にはなかった)しかし、このような成果を阪大に持っていかれたら、神戸大がかわいそうだ。以前、福井大の長谷川健二講師が「(できる学生が)どうしてよその大学院に進むのか」と言っていた、と友人から聞いたことがある。
 神大には、入学時に志望研究室の変更を認めてもらった恩義がある。もう一つ、この研究のために、工学部・理学部・教養学部の先生や学生から聞きまくった。親切に教えていただいた。この画期的な研究成果は何としても神戸大に残したいという義理を感じた。(古いかなァ)
 さらに当時、工学部に博士課程設置の運動が続けられていた。
 

 研究室に残って今の研究を継続できる方法を、ぎりぎり卒業日まで教授と模索した。うまい方法がなかった。「そのうち大学に呼ぶ」と言われたが、いつのことやら。しかし、いつでも大学に戻れるのなら、まずは社会に出て会社を知っておいて、それから大学に戻るというのもアリだ。教授には、前述のような信用できない点が多々あることだし、万一教授と対立した場合、社会経験がある方が対応力がつくと考えた。


 

第2章 荏原製作所時代(1973年4月~1974年1月) 

4月 中央研究所に配属

 休みの日は、よく社員寮近くの羽田飛行場に行った。いつの日かここから、研究成果を引っ提げてアメリカへ行きたいものだと思った。
 研修期間が終わると、神奈川県藤沢市にある中央研究所に、希望通り配属となった。
 

7月 流れの可視化に関するシンポジウム

第1回流れの可視化に関するシンポジウムが、東京大学宇宙航空研究所で7月12・13日にあった。会社から、私にも出席するように言われた。私だけかと思ったら、中央研究所の同僚がごっそりと出席していた。このシンポジウムは、これ以降毎年開催され、現在は可視化情報学会などに発展的に引き継がれている。


 10月、大阪でも流れの可視化に関するシンポジウムがあった。私は会社から出席を許された。会場は満席であった。九大の先生が水素気泡法による円柱まわりの流れの可視化実験で、流れに垂直に張った水素気泡発生用導線による流れの妨害により、円柱のよどみ点では水素気泡が円柱から離れる現象が起きることが報告された。一方、蛍光体法ではこのような流れの妨害がなく、正確に流れを可視化できる。優越感を持った。私は、会社の同僚からの宿題であった、シロッコファンのタフト法による可視化の改良法について質問した。
 

当時の流体の可視化の動向

このように東京でも大阪でも、流れの可視化の講演会・研究発表会が盛んになってきた。その背景には、国内産業の発展とともに、外国からの技術導入した流体機器を自社開発への切り替えが始まったことが挙げられる。ところが、流体機器内部ではほとんどの流れが乱流状態で、一様流を前提にした理論による流体機器の開発手法では役に立たないことが次第に分かってきた。そこで、流れの可視化への産業界からの要請が大きくなり、講演会・研究発表会が盛んになってきた。会場はどこも満席である。
 さらに、流体の理論屋にしても、理論通りの結果が得られるかどうかを実験で確かめたい、という理由で、流れの可視化への要請は強い。


 蛍光体法による水流の可視化の成果だけでも、十分に世界に打って出られる。木村教授には、危なっかしくて任せられない。会社を辞めて、神戸大にもどって研究を続ける決心をした。このことを教授に電話で伝えると、荏原製作所に来て交渉してくれることになった。 


 10月 責任転嫁

私の卒論を、海外向けの工学部英語論文集に掲載するので、英訳をしてほしいと言われ、大学に顔を出した。しかし、何と、西本助手のミスで投稿期限が過ぎていた!
 社会人であれば、手帳にまず論文の提出期限を書き、さかのぼって下書き・校正の期間を考慮して、私が大学に顔を出す期日を決めるという手順になる。そういう基本的な確認作業を教授は抜いたのだ。

 西本助手に対する監督責任がある教授はいろいろ弁解していたが、そのうち、私に謝罪するどころか「なんでもっと早く修士論文を書いて、英語論文に直しておかなかったのか」と、今度は私に責任を押し付けてきた。

 当初、自分がいきなりガンタンネルで、電子線を使って可視化するという無理な研究方針を要求して、研究への着手を遅らせておいて。いつもの責任転嫁だ。「電卓ミス責任転嫁事件」を彷彿させる出来事だった。教授の頭の中には責任・謝罪と言う言葉はないのか。
 木村教授が加害者で、私が被害者であるのに、いつの間にか逆転させて、教授が被害者ぶって、私を叱責する有様であった。


 誰一人として、私への謝罪の言葉もなく、ましてや交通費の弁償の話もなかった。このレベルの連中にまかしていては、いつまでたっても成果は出せないだろう。そのうち他の研究者に越されてしまう。
 ますます、会社を退職して、大学に戻ることを決意した。
 


 今考えると、この「論文投稿期限見落とし事件」は、蛍光法の成果を初めて海外に示す重要な機会を逃したという点で、大きな失態だ。
 修論レベルでも、十分世界に通用する成果であった。この論文に興味を示す研究者は世界中にたくさんいるはずだ。世界中から問い合わせが数多く来れば、木村教授も水流の可視化に注力したかもしれない。紫外線レーザーを快く購入したかもしれない。……この話は後で触れる。

12月 教授来社

 教授が、私の退職のことで、神戸からわざわざ藤沢市にある中央研究所へ来たことで、会社での私への評価が高まった。この日は、決断を保留した。 

課長へ退職を報告

翌日、上司の鈴木課長に退職を伝えた。「どうしてその情熱を今の研究に注いでくれないのか」と言われた時は、言葉に窮した。課長の立場からしたら全くその通りだ。講演会などにもよく出席させてくれた。感謝している。だから結論を出すのに本当に悩みに悩んだ。


 流体工学に貢献できる基本的な技術、波及効果が広い。そのようなすごい技術。日本機械学会賞をねらえる研究だと伝えた。課長は「君の修士論文を貸してくれ。所長に話してくる」と言って出て行った。

中央研究所所長へ退職のあいさつ

  退職のあいさつをするために、谷口修荏原製作所中央研究所所長の部屋に行った。谷口修氏は日本機械学会会長を1972年に務められ、東京工業大教授を退官後、所長として迎えられた方だ。「もっと大学と企業は結びつきを強くすべきだ」が持論で、それを実践された。「本来なら、日本機械学会会長を務めたほどの人なら、東芝・日立レベルの日本を代表する大企業の研究所長に収まるはずの方を、荏原製作所が頼み込んで引っ張ってきた」と噂されていた。


 私 「これで博士号は取れますか?」
 

 所長「とれる。しんどいぞ」


 私 「覚悟しています」


 所長「博士論文は(京都大の)神元(五郎)さんのとこに出すのかなあ」 


 所長「東工大に行かないか?」


 私 「行きたいのはヤマヤマですが、木村先生が反対するでしょうね」


 所長「若いからなあ。ワアッハッハッ」
   「神戸大にはいい先生がいる」
    岩壺卓三先生のことか。


 所長「恵まれているぞ」


 私 「自分でもそう思います」 

送別会

研究所近くのクラブハウスで、私のための送別会があった。


 このときの鈴木課長の話によれば、木村教授は、「私を会社員のまま大学に派遣して、研究を続けられるよう」に課長と交渉してくれた、ということだ。これは私から事前に頼んだ覚えはない。身勝手な、ずいぶん虫のいい話だ。しかし、人材の供給源である大学と今後とも良好な関係を保たなくてはいけないという弱みのある企業としては、怒るわけにはいかない。「人手が足りない状態でとても大学に派遣はできない」と課長は返答したとのことだ。また、アメリカに私を留学させるというような話もあったそうだ。


 相変わらず、教授は大風呂敷を広げたようだ。蛍光体法研究の細部を詰めずにそんな軽率なことを言うと、失敗したときに赤っ恥をかくぞ。大学内では大風呂敷を広げ過ぎた責任を学生のせいにして握りつぶせるが、今度の相手は大企業だぞ。


 最後は、私の胴上げで閉会となった。 

1月 荏原製作所退職

結局、退職して、研究生として、神戸大で研究を続行することになった。この時の条件として、博士号が取れること、紫外線レーザーを買うことの2点を、電話をするたびに、繰り返し念を押した。それでも、博士号が取れる確率は50%ぐらいと、みていた。教授は信用できないからだ。大きな犠牲を払っての退職である。これ以上の譲歩は、教授には絶対にしない、との決意であった。


 一方、これで研究が途切れず続行できると、教授は大喜びであった。二人は同床異夢といったところだ。


第3章 神戸大研究生時代 1974年4月~8月 

4月 二兎を追う者は一兎をも得ず

学部から修士1年に進んだ中野紳二君と一緒に研究をすることになった。彼は、昨年度修士2年の中畑君と一緒に、私が卒業した後、蛍光体法研究を引き継いだのだった。


 最初、中畑君がやりたいと言ったのは、ホーバークラフトの流れの研究であった。その研究だけでも大変なのに、教授が蛍光体を使ってその流れを調べるという条件を付け加えて研究を許可した。どう考えても、1年にも満たない短期間にあれもこれもはやれない。第一、蛍光体を使って流れを調べる方法自体が難しい。これだけでも重荷だ。
 結局、両方ともできなかった。この件で、中畑君の下で一緒に研究していた中野君は、かんかんに怒っていた。やっと研究に携われると期待して卒業研究に加わったのに、その夢がむちゃくちゃにされたのだから。


 ホーバークラフトの艇体下部はスカートと呼ばれる合成ゴム製のエアクッション用側壁が四方に垂れ下げられている。その代用としてすり鉢状のものを、卒業直前の1月ごろ薄暗い部屋で、中畑君がたった一人で作っていた。私が通りがかりに「うまくいっている?」と声をかけたら「ううん」と首を振っていた。 このような研究には必ず風洞がいるのだが、前述のすり鉢状のものが入るような風洞が見当たらない。これでは、せっかくすり鉢状のものを作っても走行時の気流状態が測定できない。


 
他の研究室では、すでに修論を書き上げた学生もいるだろう。そんな中、測定装置の当てのない模型を一人で黙々と作る中畑君の姿を思うといたたまれない気持ちになる。そこまで学生を追い詰めて、どんな教育効果があるのか。予想はできた。あれもこれも初めてのことをさせるからおかしなことになる。あの教授には計画性が欠落している。

 実は2年前、私の研究テーマが蛍光体法に決まった時、それ以前から考えていた「回転物体に極超音速流を当てたときの流れの研究」はどうするのか、と教授に聞いたとき、「蛍光法」と一緒にやれと言われたことがある。
 また超音速流の可視化研究を命じられた時のこと。詳しく検討すると、電子銃の作成、ガンタンネルに気流を均一に混入する方法など難問が多く、卒業までの8か月の残り期間では無理だと断ったことがある。どうも木村教授は、研究計画が杜撰で、過大な負担を学生に化する傾向がある。
 初めてのことなので、新しい実験装置・器具が必要となる。これにお金がかかるし、研究計画が立てにくい。そのためには、指導者は猛勉強しなくてはいけない。それをしない。必然的に失敗する。


 研究会でのこと。失敗の責任を中畑君に押し付けるような発言を桑田技官がしたので、私が「(蛍光体による)気流の可視化をさせるからや」と、教授の指導を批判する発言をしたら、その場が凍り付いてしまった。


 木村教授は、自分で研究しないで学生にやらせ、指導責任者であるにもかかわらず、適切な助言をしない。学生が失敗しても、まるで傍観者のような態度だ。学生に「オリジナリティ」を要求する前に、まずは手本を示してみろ、と言いたい。
 教授自身に研究能力がないから、当然、研究方法を学生に指導できない。研究者を夢見て入学した学生がかわいそうだ。神戸大には木村教授の任命責任があるぞ。



5~6月 紫外線レーザー購入約束の反古

 約束通りに紫外線レーザーを購入してもらう前に、業者(株式会社金門光波)から実物を借りて予備実験することにした。その結果、今にも買うような段階に来て、急に紫外線レーザー購入が話題に上らなくなった。例によって、都合の悪い話はしゃべらないでおく、ということか。紫外線レーザーは買わないのだな、と疑い始めた(もしかしたら、最初から買うつもりはなかったのかもしれない。私をだましたのだな)。例の「臭い物には蓋」事件の再来だ。


 紫外線レーザーがこういう事情によって買えなくなったと、言われれば、業者から実物を借りている間に、予備実験でなく水流と気流の可視化の本実験を全部やってしまうこともできたのに。それで十分論文は書ける。はっきり言って、蛍光体法では流れとのずれは小さいのだから、あとはどれくらいの速度まで可視化できるかを示すだけだ。このための実験装置は、回流型流路に可変回転数モータに接続したポンプを挿入するだけなので、簡単に作れる。この成果をもとにして企業を回って寄付金を募り、その金で紫外線レーザーを買うことができたかもしれない。
 

 ずさんなアイデアの披露

 ①紫外線レーザーの手作り


 こんな時、研究会で、桑田技官から紫外線レーザーの手作りが提案された。安価な赤外線レーザーを改良して、紫外線レーザーに仕立てるというものだ。唐突な提案なので、頭が真っ白状態になって、私は返答に窮した。この時、教授はうんうんとうなずいていた。

 
 下宿に帰って桑田技官の「レーザーからは『いろんな光』が出ているから・・・・・・」と言っていたのを思い出した。白熱灯のようにいろんな波長の光がレーザー管からも出ていて、紫外線フィルターを使って紫外線を取り出せばよいと安易に考えていたのだろう。二人とも、白熱灯とレーザーの発光原理の違いが分かっていない。
 おそらく、この文章を目にした工学部学生は、この二人の余りにもレベルの低い知識に、あ然とするだろう。受験生なら、神戸大を避けて他大学に進学するだろう。


 赤外線レーザーは普通のガラス管でできている。一方、紫外線レーザーは紫外線を透過できる石英ガラス管でできている。管が違うので、改良してもできない。さらにいうと、ガラス管に封印されたガスが赤外線用と紫外線用で異なる。ガスの入れ替えなんて、素人にできるのか。
 たいして検討せずに、専門書を調べることもなく、安易に無責任な提案に相槌を打つ。学生でただこき使えて、研究の納期もない。何回でも気楽に失敗できるということか。蛍光体法の研究よりも赤外線レーザーを改良して、紫外線レーザーに仕立てる方がはるかに難しい。というより、不可能だ。学生に成功体験をさせて、研究能力を育ててやろうという意欲はないのか。教育者として失格だ。


 ②ビーム照射点の周囲の散乱光の消去法


 蛍光体法では、図表9,10に示すように、ビーム照射点の周囲に邪魔な散乱光が生じる。教授がこの散乱光の消去方法を披露した。半周期ずれた光線を照射するというものであった。得意げであった。
 

 しかし、この時のビームの光源である東芝の理化学電球(水銀灯)の発光スペクトルは、レーザーのような単色ではなく、多色の連続スペクトルである。しかも、位相はまちまちでしかも発光部は円柱状の立体だ。したがって、焦点がぼやけて一点に収束できない。したがって、理化学電球では理論的にも物理的にも不可能だ。出来るとしたらレーザーだけだ。
 これらの事は、「データ―集だ」と卑下された私の修論に記載している。すぐに調べればわかることだ。


 さらに言えば、このような提案は、紫外線レーザーを買ってから提案すべきだ。紫外線レーザー購入約束を反古にしておいて、何を言うとるんか、と思ったが相手は教授。適当に褒めてゴマをすっておいた。
自分の考えを披露するのはいいが、自身の研究能力レベルも披露することになる。この程度の浅知恵で、研究を指揮しているのか。何度も失敗するはずだ。


 荏原中央研究所に東京工業大教授が、研究発表に来たことがある。あとで、同僚が「こんなデータばっかり。大学教授なら理論解析せにゃ」と言っていた。企業の研究者はこんな見方をするのかと思った。他企業としのぎを削っている企業の研究者は、学生相手で楽をしている大学教授の研究能力を見透かしてしまう。


 参考までに言うと、すでに防音対策として、半周期ずれた音声をスピーカーから流して、工事現場のエンジン音を消すというのは、当時研究されていた。結果は、消音できるが意外なところで騒音が増幅してしまう、ということで実用化には至らなかったようだ。
 紫外線の波長は
0.0005ミリメートルより小さい。一方、音の波長は3メートルほど。散乱光を消すために紫外線を半波長ずらすといっても小さすぎて音ほど簡単ではない。超精密技術がいる。また装置の熱膨張の影響を考慮して製作する必要がある。安易な気持ちで取り掛かると、結局は蛍光法の研究よりも難しいことになる。このことは計算すればすぐにわかることだ。

 私が蛍光法という奇抜なアイデアを出したので、教授としてのプライドをかけてこのようなアイデアを出してきたのだろう。出すのはいいが、問題点の把握が抜けている。
 こんなアイデアより、紫外線レーザーを買う金を企業から集めるアイデアを先に出せ、と言いたい。
 

ノルマのつり上げ

階段や廊下、トイレで一緒になったとき、木村教授から次のようなことを言われた。

教授 「学会に論文を5本出せ」


 博士号を取るのに普通は論文2本くらいだと聞いていた。念のために、猪飼助教授に聞くと「5本も必要ない」とのことであった。研究成果を上げればあげるほど、ノルマを釣り上げてくるのか。こんなのやってられん。また、猪飼助教授は私のことを心配して、「こんなところにいてはいかん(博士課程のある大学に行くように)」と助言をしてくれた。
 
 「プリントが速くできた生徒は、運動場で遊んでよい」。そう言いながら
、速く出来た生徒に追加のプリントを渡す先生がいる。きっと生徒を運動場で遊ばせたら、保護者からクレームがつくからだろう。
 これについて、年配の教師が、これを繰り返すと、生徒はだらだらプリントをするようになる。大人になって、だらだら仕事をする会社員になる、と警告している。


 さらに、教授から次のようなことも言われた。

教授 「博士論文を先に書いておいて退学した後、神戸大に博士課程ができ   たら審査して博士号を授与する」


 これを聞いて、ビックリ仰天した。私としては、博士論文は京都大の神元教授のところに出して、2年程度で博士号を取って、さっさとアメリカに行く予定であった。なのに、神戸大に博士課程ができるまで(神戸大工学部には7年後の1981年に博士課程ができた)、教授のいいように奴隷として酷使されるのではないか、と恐れた。
 この調子では、仮に神戸大に博士課程ができたとしても、すんなりと博士号を授与するのかもわからない。いつまでも鎖につながれ、奴隷状態に置かれるのではないか、飼い殺しにされるのではないかという不安に襲われた。


 無給で、しかも将来の不安のある研究生という立場の私に対して、教授は「君に悪い」と言う一方で、私の無知に乗じて、このような無理難題を押し付けてきた。



 
例えで言えば、世間相場2千万円の不動産を5千万円で買わせる。そして、売買代金支払いと同時に行うべき所有権移転登記を7年間待て、と言うようなものだ。悪徳不動産業者でもここまでひどいことは言わない。

 博士号取得のために、背水の陣で大学に帰ってきたのだから、たとえ紫外線レーザー購入約束を反故し、提出論文数を5本にかさ上げしても逃げないだろう、と私の足元を見て、梯子を外したのだ。教授にとって、「約束」とは、その後の状況に応じて守る・守らない、を勝手に変えられるような軽いことのようだ。ここまで利己を優先して、学生に冷酷になれる教授はいないだろう。
 それに私が、教授が言う「提出論文数を5本」が博士号取得のための妥当な数かどうかを、念のために他の教官に確かめようとし、その結果、提出論文数のかさ上げがバレたときに、大きな不信感を抱くことは、教授には容易に予測できたはずだ。その場合でも、私は絶対に研究生を辞めることはない、と読んだのだな。



 これまで「オリジナリティ(独創性)、オリジナリティ」と耳にタコができるほど聞かされてきた。何のことはない、自身の業績のために言っていたのか。大学の私物化、学生の私物化だ。いよいよ利害の対立が浮き彫りになってきた。
 こういう重要なことは、私が研究生として大学に戻るときに、最初にちゃんと言うべきだ。「レーザーは買わない。気流の可視化を成功させろ。論文は5本出せ。神戸大に博士課程ができてから、博士号は授与する」と。もちろん、これを聞けば、私は東京工業大へ進路変更するが……。
 

企業における博士号の価値

企業では博士号を持っていたとしても、研究能力の有無とは別問題だ。高専出身でも優秀なのがいるし、実力勝負の世界だ。部下にすぐ実力を見破られる。それに当時、今でも同じらしいが、企業から「博士取得者は会社の方針になじめない」という烙印を押されていた。企業を経験した私にすれば、博士号程度に何年もかけられるか、という気持ちだった。



 一粒で3度おいしい


 
教授は私に3つの役割を期待しているようだった。1つ目は、論文の量産。2つ目は、博士課程が開設された暁には、博士号の1番乗り。つまり教授による研究者育成成果。
 3つ目は、研究室に活を入れること。教授が「京大ではこんなことはなかったのに」と私にぼやいたことがあった。学生が机に向かって、勉学に打ち込んでいる姿が木村研究室には見受けられないことを言っているのだろう。
 研究生として登校を始めたころ、教授が学生部屋を覗いて、常に私が机に向かって居るのを見て、満足したように自室に帰って行ったことが、たびたびあった。(当時、私は乱流拡散現象を調べるため、煙突からの大気汚染分布の文献を調べていた)。他の学生も、見習って机に向かい出すことを期待していたのだろう。
 アーモンドグリコに「1粒で2度おいしい」というキャッチフレーズがある。1粒で3度おいしい私を、酷使する腹だったのではないか。

 しかし、これは筋違いの解決策だ。本来は、教授自身が研究テーマを持ち、学生や助手にその課題を分担させるというのが、うまくいっている研究室の姿だ。
 学生に自分で研究テーマを探せなどと、無理難題を要求するからだ。それに、学生が選んだ研究テーマについて助言する能力がないことが、蛍光体法の研究で暴露されてしまった。これでは、学生はじっくり落ち着いて机に向かうことができない。

 7月 再び、臭いものには蓋

定例の研究会で、紫外線レーザーではなく、以前に手作りした紫外線ビーム発生装置を使っての気流の可視化を強要された。「乱流拡散」の問題があり気流の可視化は難しいと言うと、自室から写真を持ってきた。


 それにはガンタンネル内で、台風の目ように、流れが渦を巻いている写真であった。「本当は今の装置でも性能試験をしなくてはいけない」と言った。(ガンタンネルにおける性能テストとは、図表6の極超音速ノズルにおける流速分布が、一様かどうかを調べることである)
 今頃何を言うとるんか! 今の装置の性能試験していないということは、今の装置での測定結果には、信頼性がないということだ。この状態で、ガンタンネル完成後1年半も研究論文を量産して発表していたのか。例によって「臭いものには蓋」で通していたのか。研究者としての、教育者としての倫理観はどうなっているのか。臭いものには蓋事件を彷彿とさせる出来事だった。


 以前、西本さんの修論発表の場で、赤川教授から「ノズルから測定物体までの、実験説明上の基本的な長さが抜けている」との指摘があった。しかし、ガンタンネルの性能試験を飛ばして、実験データを発表するとは、悪質だ。バレなければ、何でもやっていいということか。


 これの伏線になる出来事があった。私が机に向かっていると、思いつめたような顔をして、西本さんが部屋に入ってきて、「木村さんがこんなことを言ったぞ。『出来るのが分っているのなら、フィルムに細工をしても構わない』って」。
 「出来ることが分かっていること」と「出来たこと」には、研究上大きな差がある。「出来ることが分かっている」研究レベルと、実際にやってみたら予期しない難問が見つかって、試行錯誤してやっと「出来た」研究レベルまでには、長い道のりがあることが多い。教授は研究をなめているのか、自信過剰なのか・・・・・・。


 臭いものに蓋の例はまだある。中畑君が行った可視化実験の資料が、私に全く渡されなかった。赤木君が卒論研究で高速気流の測定のために電子銃を完成させたのだが、それの可視化実験報告も渡されなかった。
 失敗が恥ずかしいのか、蓋をされた。失敗から学べることがあると思うのだが、これらの研究報告は一切見たことはない。それでいて、私が残した研究報告を見て失敗したデータを嘲笑する。それで優越感を得ようとする。
 失敗を非難すれば、委縮して、他の研究者がすでに成功した後追い研究しかできなくなる。また、そのうち失敗の報告を握りつぶすようになる。「失敗を非難」は研究者・教育者のやることではない。 

失敗したらみんなの責任だ!

研究会で、私がこれまでと同様に、気流の可視化研究に強く反対した。手作りした紫外線ビームー発生装置を使っての気流の可視化は、私が何度試みてもできなかった研究だ。出来なかった理由も乱流拡散だと確信している。それをまた繰り返せというのか。しかも、荏原製作所退職時に、市販紫外線レーザー購入は何度も念を押し、教授も了解した約束だ。そのレーザーがないと気流の可視化はできない。


 修士1年生の灘井君に「自分の意見をかたくなに通すのなら、会議の意味がない」と、批判された。これを聞いて、がっくりきた。蛍光体物性やこれまでのいきさつを知らない修士1年生から見れば、その通りかもしれない。皮肉を込めて「私の意見が、評判が悪いので、気流の可視化にします」と言うと、待ってましたとばかり、木村教授が立ち上がって「失敗したらみんなの責任だ!」と言った。
 

 多数決で研究方針を決めたのだから、一見民主的に見える。しかし、可視化法の研究に一番詳しく、一番熱烈に成功を望み、これまで成果を挙げてきた私の意見を差し置いて、失敗続きの教授や蛍光体の物性に無知な連中が、数の力で押し切ったということだ。「君のいいところは、問題点を見つける点だ」と以前、私をほめておきながら、この仕打ちだ。
 学生や助手の立場からすれば、木村教授に反対しても、この研究室にいる限りはろくなことはない。ならば成功しようがしまいが、教授の研究方針に同調した方が得だということになる。最初から結論が分っている。茶番劇だ。


 「みんなの責任は誰の責任でもない」。この言葉を目にしたのは、高3の時、英文解釈の本でだった。誰かが失敗したとき、「みんなの責任だ」と言えば、日本では美談になるが、外国では、責任の所在をウヤムヤにするごまかしの言葉を意味する、と知って印象に残った。将来役に立ちそうだからと覚えていた。
 後日、研究には失敗するのだが、その時、責任は研究の当事者である修士1年生の中野君に被せられた。木村教授は責任転嫁して、真っ先に逃げた。
 「失敗したらみんなの責任だ!」は、結局「逃げ遅れた現場の責任だ」ということだ。


 教授の知能が幼いのか、それとも、絶対的権力に酔いしれて、「失敗したらみんなの責任だ!」と暴言を吐いても、お前らはわしに文句ひとつ言えないだろう、という教授の傲慢さの表れなのか。
 教授のお言葉「失敗したらみんなの責任だ!」を聞いた灘井君をはじめ出席者全員は、無言のままであった。
 教授になって3年半ほどで、木村研究室に「周りが同調者ばかりの木村独裁体制」を完成させた。
 

 別の見方をすれば、私に自主的に「気流の可視化にします」と言わせるために、研究会で、教授へのゴマすり的・同調的意見を募って私を追い詰めたということだ。「強制的自主性」と言えばわかり易い。自主的に「気流の可視化にします」と言ったのだから、失敗の責任は私に転嫁できる。さらに研究会で決めたのだから、失敗の責任はみんなにも転嫁できる。自分が責任を取る、と言えないほど、自信がないのか。
 研究をほったらかしにして、こんな裏工作に熱中しているのか。本来なら研究者らしく堂々と科学的根拠を公開して議論すべきものを・・・・・・。
 こんな頼りない教授を頼らざるを得ない自分がみじめになってきた。例の「電卓ミス責任転嫁事件」(教授が、蔦原助手に電卓の入力を任せ、自身は指示する係に回り、「もし、答が違ったら、それは君の誤入力のせいだからな」と責任転嫁という逃げ道を用意していた卑怯な出来事)を彷彿とさせる出来事だった。


 しかし、仮にこの時、教授が「失敗したら責任はわしが持つ」と言ったとしても、私からすれば「これまで散々責任を学生に押し付けてきたアンタに言われてもなァ……」となる。
 さらに、本当に失敗したとき、自分の責任は絶対に認めてこなかった教授が皆の前で「私の責任だ」とは、死んでも言えないだろう。特に今回は失敗の可能性が高い。「失敗したらみんなの責任だ!」という発言は、教授にとっては考え抜いた結果なのだろう。

 

このすぐ後、学生食堂で昼食をした。蔦原助手が「失敗したらみんなの責任だ、だって……」と、つぶやいた。実は、前回の研究会は木村教授が不在で、蔦原助手が代理で研究会を取り仕切り、「水流の可視化」に決めたという経緯があった。今回はそれのやり直しであった。蔦原助手の面子は丸つぶれであった。
 蔦原助手は木村研究室のスタッフの中では、正義感を秘めた公平な見方をする方であった。このときの恩もあって、37年後の蔦原神戸大教授退職記念会には出席してお礼をした。

もはやこれまで

同じ失敗を繰り返すくらいなら、自腹で60万円の紫外線レーザーを買うことも考えた。この方が、短期間に研究成果を挙げられて、結果的に無給の研究生期間を短縮できて安上がりだ。しかし、前述したように、自腹で60万円の紫外線レーザーを買えば、ますます不退転の覚悟で臨む私の足元を見て、研究ノルマをさらに上積みするかもしれない。それを考えると「もはやこれまで」と退学を決意した。荏原製作所退職時に、「これ以上の譲歩は絶対にしない」と心に決めていたからだ。深追いはせずに、余力のあるうちにさっさと退学することにした。
 それに、研究成果を上げて、今以上に教授を出世させることは、私のような犠牲者を増やすことになる。悪事に加担するのはごめんだ。私にも多少の正義感がある。
 もう一つ。こんな教授から授与された博士号なんか、恥ずかしくて表に出せない。 


 研究室では、夏休みに島根県の隠岐の島に、皆で旅行することになっていた。一方私は就職活動で、心は研究室にはなかった。旅行どころではない。



 リーダー降格



 この後、私達の蛍光体可視化グループでは、リーダーが私から中野君へ交代になった。私に何の打診もない、いきなりの交代・降格であった。不満はあったが、退学を決めていた私にとっては、渡りに船であった。それに、すでに中野君には私の持っている知識はほぼ伝えていた。

 

8月 退学の電話

私 「8月末で大学を辞めたいんですが」


教授「お金かぁ。就職担当の先生の所に行くように」
   電話の声の後ろで、幼児の声がした。教授にも家庭があるんか。わが
  子が夢を追って研究に専念しているのを見て、夢が実現するようにと
  応援する親心を、私には注いでくれないのか。弱みに付け込むだけな
  のか。
   相変わらず「お金かぁ」とすぐに責任を私の経済的事情に転嫁しよう
  とする。気流の可視化に失敗したら、私に「就職担当の先生の所に行く
  ように」と一言告げて終りなのか。それほど私の存在は軽い物なのかと
  思った。


私 「就職先は決めました」
   この電話でのやり取りの後、1週間後に面談した。
 



 退学の面談


私 「先生と私は利害が対立する。ギブアンドテイクです。研究成果が欲しい
  んですか?」
   教授はこれを否定した。言葉の上では否定するが、実際は、「学会に
  論文を5本出せ」と過大な成果を要求したくせに、何をとぼけているの
  か。本音と建前を使い分ける。いつもの二枚舌。ますますその性格が嫌
  になる。


教授 「蛍光体による流れの可視化法のアイデアを採用したのは、私の功績
   だ。京都大機械工学科で、若手からロータリーエンジンを研究しよう、
   との意見があったが、採用されなかった。マツダは成功した。」
    マツダは、ロータリーエンジンの実用化に成功し、1967年5月ロータ
   リーエンジンを搭載したコスモスポーツを発売した。当時、快挙として
   世間から高い評価を得た。特に機械工学関係者から。しかし、その後、
   耐久性の問題、排ガス問題、燃費の悪さで販売が急降下した。
    京都大が採用しなかった理由に、膨大な研究費になる恐れや、他
   の重要な研究を犠牲にする恐れがあったのかもしれない。それに、マ
   ツダが成功したからといって京大も成功するとは限らない。マツダ
   の技術をなめるな。論理が飛躍している。とんだ屁理屈だ。
   

    また「蛍光体による流れの可視化法のアイデアを採用したのは、私
   の功績だ」とは必ずしも言えない。このアイデアの実現性を①走査線
   掃引速度、②蛍光体の密度・粒径、③蛍光体の混入密度、と緻密に検
   証して、成功の可能性をアピールした。これだけの資料を提示されれ
   ば誰でも安心して採用するはずだ。
    さらに言えば、教授の指示通りいきなりガンタンネルを使った超音
   速流の可視化研究を進めていたら、前年に続いて修論が不認定にな
   っていたところだ。教授の窮地を私が救ったのだ。余りにも自分勝手
   な意見だ。どこが「私の功績だ」。


―――教授が、自分の功績を長々と話し出したので、先ほど工学部事務室から
  もらった研究生退学届を胸ポケットから出し、テーブルの上に開いた――

教授 「何だ、それは!」
    急に顔色が変わった。先日の電話では、「就職担当の先生の所に行く
   ように」と、私の退学を容認したくせに、この日は阻止してきた。
    「何だ、それは!」とは、いかにも、自分は誠心誠意尽くしたのに裏
   切られた、と言わんばかりの言葉だ。本当は脛に傷のあるくせに。ハッ
   タリだ。


私  「今日は相談に来たのではありません。退学の報告に来ました」
    約束事を平気で破る。言葉に重みがない。相談しても意味がない。
   下手に相談をすると、弱みを握られ、いいように使われるだけだ。


私  「この大学にいる意味がない。流れの可視化研究なら東北大学でも
   している」
    一瞬教授の顔がこわばった。


教授 「じゃあ言おう。修士在学中の成績が悪い(から、他大学の博士課程
   へは行かれない)」


私  「(蛍光体による流れの可視化法の研究成果は、修士在学中の)成績
   がどうこう言うレベルの研究ではない」
    おそらく修士在学中の学業成績で博士課程の合否を決めるという
   のは、これまで修士課程で独創的な研究成果を出す学生がいなかっ
   たという長い年月の中で、慣習化したものだろう。また、よく言われ
   ることだが、西洋の水準に追いつくことが主目的の時代の名残だろ
   う。
    修士在学中の成績が悪いから博士課程入学を認めない、という大
   学や教授には、私の方から断りたい。
    米国は、個性を尊重し、挑戦者を評価する風土があると聞いてい
   た。その米国に、教授になる前の1年間留学していた木村教授の口か
   らこう言われるとは心外だった。米国留学で何を学んで帰って来た
   のか。
    相手をやっつけるためなら、これまでの自分の言動と矛盾があ
   っても、平気でどんな言葉でも言う。木村教授の常套手段だ。  

教授 「……」
    いつも大物ぶって、どんな質問でもかかってこい、という態度だが
   私のちょっとした反論に、あっけなく沈黙(沈没)してしまう。その場し
   のぎの出まかせを言うからだ。いつもこうだ。指導者として、教育者
   として失格だ。
    利根川 進氏が1987年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。氏が
   一浪の末、京都大学理学部に入学していたことに関して、ある京大
   教授が「ノーベル賞を受賞するような学生を落とす大学入試という
   のは、どんな意味があるのか」と述べた新聞記事を覚えている。研究
   能力と受験能力には違いがあるということだ。

    独創的な研究をしようと思えば、皆とは違う勉強をしなければな
   らない。皆と同じように修士課程の授業を一生懸命勉強したからと
   いって、独創的な研究ができるとは限らない。試験が済んだら、たち
   まち忘れてしまう知識にはあまり興味はない。どうしたらこの研究者
   のように新しいことを思いついたり発見したりできるのか、そのこと
   にこだわって勉強してきた。――このことについては、後ほど「創造
   工学」の項目で詳細に述べる。


 普段は、さんざんオリジナリティ(独創性)と言っておきながら、修士在学中の学業成績が悪い、というのは矛盾している。いつもの二枚舌。子供だましみたいな、私を馬鹿にした意見だ。
 研究成果よりも学業成績を優先するというは本末転倒だ。学業の真の目的は、社会の個々の問題を解決することにある。手術が上手な医者に、学業成績が悪いからダメだというようなものだ。お前はそれでも教授か。
 確かに、教える立場からすれば、授業成績の良い学生が優れた研究成果を上げてほしい、と思うのは自然なことだろう。それに、偏差値の低い大学から来た、学業成績の悪い学生が優れた研究成果を上げたのがバレると、「神戸大はどんな授業をしとるんか」と非難されることになるし・・・・・・。
 本来ならこの時、学業成績が研究成果に結びついていないことを木村教授は謙虚に反省し、大学に働きかけて教育方法を見直すべきだったのだ。
 2016年6月に、神戸大工学振興会事務局に本書のための資料集めに行った。年配の事務員が「近年、神戸大生え抜きの先生が少なくなった」と嘆いていたぞ。

 ついでだから、神戸大学工学部に進言しておこう。大学の偏差値で測定される能力がよく反映される土俵で、旧帝大レベルの学生と同じ勝負するのは神戸大学生にとって不利だ。神戸大学の教官に旧帝大出身者を連れてくると、結局は旧帝大レベルの学生と同じ土俵で勝負させることになる。
 福井大学出身の私は、旧帝大レベルの学生と同じ土俵で勝負しないで研究成果を上げる方法を福井大に入学以来ずっと考えて勉強してきた。神戸大学の教育は、目標によって学習方法を変える柔軟性が欠けている。



私  「中畑君にどうして気流の可視化研究をさせたのですか」


教授 「本人がやりたいと言ったからだ」
    本人がやりたいと言ってやったのだから、失敗は本人の責任だ、教
   授の私の責任ではないということか。とんだ屁理屈だ。本当は、ホーバ
   ークラフトの研究がやりたかったのに、気流の可視化研究も同時にやる
   ならやってもいい、と過重な研究をやらせたのだ。ごまかすな。


私  「本人がやりたいと言ったら、させるんですか」
 


教授 「……」
    再び反論なく沈黙(沈没)。私には、やりたくない気流の可視化を
   強要しているから、教授はまともには答えられない。二枚舌の矛盾を
   露呈した。
    それにしても、教授の言葉は二枚舌のオンパレードだ。木村教授に
   は、一体何枚舌があるのか。


私 「研究者になるのはあきらめた」
   博士課程のある他大学に進んで、見知らぬ教授のもとで研究するのは
  、木村教授の例があり不安。これまで、荏原製作所には多大な迷惑をか
  けた。両親にも心配や負担をかけた。これ以上夢を追って、周囲に負担
  や迷惑をかけられない。それに、私は心身ともに疲れた。しばらく休み
  たかった。


教授 「(博士号がここで)取れる。取れる。取れる」(優しく、しだいに小さ
   な声で)
    「取れる。取れる。取れる」の3回の念押しも、自分が困った時に連
   発する、いつもの出まかせにすぎないと無視した。科学的な根拠を
   示すことなく、不勉強で乱流拡散現象が分らないくせに、何が「取れ
   る。取れる。取れる」だ。度重なる無責任発言にもほどがある。
    


私  「お世話になりました」


教授 「君がいなくてもやる。ワァ――」
    夏休みの誰もいないがらんとした階全体に、鳴り響くような唸り声
   であった。むかつくので、ドアを開けたまま退室した。
    


 両側に教官室が並んだ薄暗い廊下を過ぎると、まばゆいばかりの階段踊り場に出た。奴隷から解放され、やっと自由の身になった。そして、私の青春が終わった。 
 周りの友人が次々と夢をあきらめる中で、自分だけは夢を実現できると思って頑張ってきた。自分の能力が足らなくて諦めるのではなく、まさか能力のある学生を標的にして、過大なノルマを押しつける教授のせいであきらめることになろうとは、夢にも思わなかった。
 研究には2つのリスクがある。1つは研究自体の成否のリスク。もう一つは、どんな上司に仕えるかというリスク。このように余りにもリスクが多いと、研究者を目指すのは割に合わない。
 
 
 出る杭は打たれる。出過ぎた杭は上司に利用される。若いということは
何の権限がなく、いいように使われるだけだ。
 工学は一人では研究できない。組織を必要とする。組織を離れた生活をするためには、工学を捨てるしかないのでは、……と思い始めた。

創造工学(この項目は本書を書く主要な動機の1つでもある)

 大学入試で1期校の受験に失敗したので、「このまま我流でやっても、大した研究者にはなれないだろう」とこれまでの勉強方法を見直した。
 中3になると高校受験のために放課後「補習」という時間が設けられていた。ほとんどの生徒は参加するのだが、私は参加しなかった。高校になっても同様であった。私が福井大に受かったとき、中・高と英語を習った上原先生に「ちゃんと補習を受けていたら一期校(広島大)に受かっていたのに」と言われてしまった。
 何かいい本がないかと図書館で調べていて、『才能の発見』(穐山貞登著1968年大日本図書)を読んだ時だ。「創造工学」「発見学習」という言葉に初めて触れ、興味を持った。この本のおかげで、研究者になるための勉強方法が見えてきた。この本は今でも手元にある。

 ついでに言えば、学習方法の勉強は研究者にとっては必須だろう。短時間に世界の最先端の情報を学習し、既存の情報と効率よく組み合わせて、問題を解決するためには、我流では無駄が多い。特に「創造的思考」の分野は重要だ



 さらに深く知るために『創造性の科学―-図解・等価変換理論入門』(市川亀久弥同志社教授著1970年日本放送出版協会)を読んだ。教授に会いに同志社大まで行ったことがある。この本に書いてある通りの「類推」に着目して勉強した。例えば、いな光と木の枝の張り具合は、太い線からしだいに細い線に分かれている。両者に共通した科学的理由は何か、というような勉強である。
 確かに、研究で壁にぶつかったとき、類推して同じような科学現象を調べれば、解決のヒントが得られる確率が高くなるだろう。それなら科学現象を多く知っている方が、多く類推できて研究に有利になる。


 そこで、機械工学の勉強はほどほどにしておいて、機械工学の勉強しかしてない奴らが身動きできない壁にぶつかったときに、さっそうと解決策を提案できるようにと、主に電気や物理を勉強した。他学科でレーザー光線の特別講義があったので、受講したいと教授に頼んだら、「(機械工学科からは)君だけか」と言われた。


 1969年福井大3年の時(1960年代末の、大学紛争または大学闘争と呼ばれる学生運動が繰り広げられた時代)、機械系学科教官に対して、学生がカリキュラム改革委員会を立ち上げて、授業改革を要求した。その時のカリキュラム改革委員長を務めた。旧来の方法ではなく、前述の「創造工学」を取り入れた教育を要求した。荏原製作所を退職して大学にもどって研究を続けようとしたのには、このような教育改革への強い思いとカリキュラム改革委員長を務めた責任があったからだ。(しかし、今ではこの考えは変わった。大学の教育改革よりも、こうしたアカハラ・パワハラ防止が私にはあっていると)
 団交の席で、若杉昇八教授に「教育は人体実験。効果の未知な指導法を取り入れるわけにはいかない」と言われた。数に物を言わせて決めるとか、時代の雰囲気で教育を決めるな、と言うことであった。


 4年生になり、大学院受験で忙しくなり、授業改革活動からは離れることになった。それに「創造工学」を取り入れた勉強方法で研究成果を上げれば、「創造工学」を大学教育に取り入れることの正当性を主張できると考え、山本富士夫助手の助言で、創造的な研究指導をしている阪大の石谷清幹教授の研究室を第1志望として受験勉強にまい進した。


 「研究者は押しピン型の知識体系を持て」という意見を機械学会誌で読んだことがある。一つの専門分野と関連する周辺分野の両方の勉強が大切だということ。受験のおかげで、この体系に、一歩近づけたようだ。


 神戸大修士課程の入試成績は、上位であった。学科の教官がずらりと並んだ面接で、私の志望研究室である鳴滝教授に「ここ以外にどこか受験するのか」と聞かれた。おもむろに「阪大です」と答えたら「阪大に受かったらどうするか」と聞かれた。一瞬面接会場が凍り付いた。どう答えたらいいのか戸惑った。聞く方も聞く方だ。仕方なく正直に「阪大にいきます」と答えた。会場は爆笑の渦に包まれた。目の前に立っていた市川雷蔵風の教官(後で、瀬口助教授だと分かった)が、大きく腰を折ってずっこけていた。



 学業成績と研究能力の関係


 研究対象が既存の機械の装置や計算方法の改良を目的とする研究では、必要とする学問分野が機械工学に留まるので、学業成績との相関は大きいだろう。
 しかし、改良では埒が明かないとき、全く別の方法を考案する必要があるときは、機械工学以外の学問分野の知識が必要なので機械工学の成績との相関は小さいはずだ。実際、蛍光法の研究には、光学・蛍光体物性・粉体工学など機械工学では扱わない知識が必要であった。
 このように、研究対象によって専門分野と周辺分野の必要な知識割合が変わってくる。周辺分野を扱わない修士課程の成績が悪いからといって、成果を上げた学生を批判するのは、研究も教育も分っていない者のやることだ。
 また、光学・蛍光体物性・粉体工学などの独学力は、私の方が木村教授よりも勝っている。決して丸暗記ではなく、常に現象を心に浮かべながら、繰り返し読み込むことを心がけていた。さらに合間を見ては実験をして、予測通りの結果になるかどうかを調べて、思い違いを修正していた。

 学業成績のいい人は、優秀ぶってそんなことは実験しないでも分りきったことだという態度をしがちだ。そういう人に限って、予測と違う結果が出た時に右往左往してしまう。
 「今までわれわれに与えられてきた教育は初めに一般的なものを授け、問題をそれに当てはめて処方通りにとけばよいという、いわゆる料理本的な傾向が余りにも強かった。…」(柿内賢信訳 G.ポリア著『いかにして問題を解くか』丸善 昭和36年) 料理本的なテストに慣れっこになると、目の前の現象をじっくり観察することなく、適用条件を逸脱して公式を使い、数式と現象のつながりを断ち切ってしまう。学業成績は良いに越したことはない。しかし、あまりに過信すると、前述のように予測と違う結果が出た時に右往左往してしまう。


 私の勝負の主戦場はペーパテストではなく研究にある、と考えていた。物理公式を学んだ時、どうしてこの人だけがこんな公式を見つけられたのか、現象に影響を与える様々な要因があるにもかかわらず他の要因を無視して3つ4つの要因に着目して公式を完成させたのは、どういう判断があったのか。このような問いを発することが、自身が研究の最前線に立った時に、本当に役に立つ勉強だと思ってやってきた。しかしこれには時間がかかった。結果として、学業成績は良くはなかったが、研究では成果を出せた。

 

 8月末 論文発表

東京タワー近くの会場で、論文を発表した。その日の最後の発表者にもかかわらず満席であった。座長は、塑性加工が専門の私立大学教授であった。論文発表後、この座長から次のような質問があった。


「この方法で、プラスチックの射出成型時の可視化が可能かどうか?」


「今後はどのような方向へ研究を進めるのか?」
 この質問から、おおいに期待されているんだなと思った。


「この方法による3次元の可視化は、どんな方法でできるのか?」


「この方法による気流の可視化は、どんな点が難しいのか?」
 

 矢継ぎ早に、質問攻めにあった。現時点で大きな成果であることを示している。
しかし、木村教授は水流の可視化は評価しない。もしかしたら、高速気流の可視化でノーベル賞をねらっているのか。ミスもなく私の発表が終わった。世界の最先端を走っていた研究者が、ただの若者に転落した瞬間でもあった。


 帰り際、荏原製作所の鈴木課長、鵜飼主任が近づいてこられたので挨拶をした。発表中にマイクのコードが蛍光灯スタンドに引っ掛かり、スタンドが机から落ちそうになったのをうまく処理したことを指して、「落ち着いて、発表できましたね」と課長から声をかけられた。わざわざ出席してくれたにもかかわらず、二人にそそくさとあいさつをして、逃げるようにして別れた。木村教授も私と同様に、形だけのあいさつをして去った。私に「東京行きの旅費の半分は、研究室で出す」と言っていたが、結局何もなかった。うそつき。


 講演会場から出てすぐ、目前の夕日を浴びた巨大な東京タワーを見上げた。10年前の中3の修学旅行を思い出しながら、視線を下方へ移した。タクシーを呼ぼうと手を振っている男性の後ろ姿が目に入った。木村教授であった。とっさに、ケツを思い切りけり上げてやろうかと思った。こんなところで警察沙汰になると神戸に帰れなくなると、思いとどまった。


 立派な教授の後ろ姿を見ると畏敬の念を抱く。しかし木村教授の後ろ姿からは憤りがこみ上げる。可視化法の最大の壁は乱流拡散ではなく、木村教授の存在そのものだった。
 


 当初、研究者の夢はあきらめたのだから、学会デビューのための論文発表は意味がないと、今回の発表者の役を私は拒んだ。しかし、木村教授はこれを認めなかった。発表し質問に答えるだけの知識がないからか。ないならないで、この機会に蛍光体法を勉強して今後の学生指導に役立てればいいのに。
 木村教授は研究の最前線に立つことなく、学生にはいい加減な知識で研究の方針を指示する。失敗したら学生の責任にして、飛んで逃げる。おそらくは、研究方法も教育方法も全然わかっていないのではないか。



 筆頭著者の誤記入放置は、木村教授の「悪意による不当利得」だ


 この講演会の3か月ほど前に、この日のための論文を書き上げて、木村教授のところに提出したときのこと。教授がこの論文の最初の行あたりに視線
を釘づけにしてしばらく動かなかった。それから、笑みを浮かべて、「読んでおく」と言われて、私は退出した。

 実は、この論文には筆頭著者に木村教授を、2番目に私の名前を書いていたのである。「教授がこの論文の最初の行あたりに視線を釘づけにしてしばらく動かなかった」のはこれだったのだと、40年後の本ホームページを書く今頃になって分った。

 「学術論文を発表する際、その著者の名前の順番というのは重要です。研究者の評価はその人の発表論文で評価される事が多く、その際、その研究者の名前がそれぞれの発表論文の著者の並びでどこに位置しているのか、でその人の各論文に対する貢献度を量られるからです。 我々の分野では、筆頭著者に主な実験を遂行した人の名前がきて・・・・・・」と、インターネットにはある。本来なら、この時に「君の名前を筆頭に書け」と私に訂正させるべきであったのだ。
 「蛍光体による流れの可視化法のアイデアを採用したのは、私の功績だ」としても、アイデアの採用者が最大評価されるのならノーベル賞はみな上司・社長・出資者らが受賞することになる。これはおかしい。とんだへ理屈だ。
 
 田中 耕一氏が2002年にノーベル化学賞を受賞した。 受賞対象の研究は、1985年に特許申請された「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」である。 特許申請時、田中氏は26歳の島津製作所の平社員と推測する。
 すると、年齢から言って田中氏のアイデアを採用したのは上司の課長レベルだろう。この時、課長が「君のアイデアを採用したワシの業績だ」と横取りしていたら、田中 耕一のノーベル化学賞もあり得なかったことになる。そういう意味では、島津製作所は公正な評価ができる研究組織なのだろう。 木村よりも島津製作所の方がはるかに紳士的だ。
 

 民法に「不当利得とは、法律上の原因なしに他人の財産又は労務により利益を受けている者(受益者という。今回の件では木村教授)から、これによって損失を被っている者(筆者)に対して利得を返還させる制度である」とある。
 「たとえば、商品を購入した際にお釣りを本来よりも多くもらったとしましょう。この場合、正当な理由がなく利益を受けているため、不当利得(民法第703条)に該当します。そのため、もらいすぎたお釣りは売主側に返還する必要があります。」

 さらに続けて、「悪意とは、ある事実について知っていることを意味します。つまり、不当利得であることを知った上で受け取ったケースです。 この場合の返還義務は、民法第704条に記載されています。悪意で利得を受け取った者に関しては、「その受けた利益に利息を付して返還しなければならない。この場合において、なお損害があるときは、その賠償責任を負う。」と規定されています。 」とある。

 したがって、本来なら、この時に「君の名前を筆頭に書け」と私に訂正させる義務が、この論文の間違いを公正に調べるべき木村教授にあったことになる。これは悪意により不当利得を受け取ったケースに該当する。

 木村教授の行為は、「悪意による不当利得」に該当し、相当悪質だ。自分の失敗を学生のせいにするくらいだから、学生の研究成果でも、学生が気付かなければ「いただいておこう」ということか。「君は実績をあげた」とほめていたにもかかわらず、学生の成果を横取りしていたのだ。きたねェー野郎だ。これだけは許せない!
 ノーベル賞を受賞するには、私の存在が邪魔になるので、この機会に筆頭著者の地位を奪おうということか。以前から周到にこの機会を狙っていたのだな。


 未確認思考体


 木村氏が重要事項の確認を怠った主な事件を挙げると、 ①偏微分・常微分混同事件 ② 論文締め切り日確認漏れ事件 ③蛍光法によるいきなりの超音速流可視化強要事件 そして前述の④ ノーベル賞受賞分野未確認事件
がある。
 ノーベル賞を目指して過酷なノルマを私に課した。さらに筆頭著者の地位を私から奪った。しかし肝心の、流体工学はノーベル賞の対象かどうかの確認を怠った。これでは「捕らぬ狸の皮算用」ではなく「取れぬ狸の皮算用」(どんなに頑張っても取れない狸の皮算用)だ。このホームページの読者からのご指摘で、私も今頃になって初めて知ったのだが。ここまで確認を怠るとはひどい。
 そもそも研究というのは、何が確かで、何が不確かかを峻別する作業だ。確実な事項を基にして、不確実な事柄を明らかにしていくものだ。いい加減な情報を基に研究を進めたら失敗する。
 
 おそらく、未確認思考体と呼ぶにふさわしい木村氏は、これまで確認を怠り続けて、失敗を重ね、とうとう研究者としての自信を喪失してしまったのではないか。
 しかも、都合の悪い研究データは蓋をするくせがある。データを残さないと失敗の原因がつかめない。ますます失敗を重ねることになる。
 度重なる失敗は、若くして教授になった木村教授への決定的な不信につながる。これを回避する手段として、多数決で研究を進める方法を編み出したのだろう。「失敗したらみんなの責任だ」という発言はこうして生まれた。


8月末日 研究生退学

結局、4月~8月の研究生時代にした実質的な仕事は、1年前の修士論文をこの東京会場であった講演会用に書き直したことと、それを発表したことの2つだけであった。わざわざ、会社を辞めることはなかった。


 だまそうとする師、だまされまいとする弟子という異常な師弟関係であった。人間に対する不信感を植え付けられただけだった。もう少しで引き籠りになるところだった。「羊頭を掲げて狗肉を売る」の狗肉さえも無く、「腐肉」を売られた。腐肉を食わされて、心身ともにガタガタにされてしまった。

 


第4章 その後 

1974年9月 手紙を送りつける

腹の虫がおさまらないので、教授に手紙を送りつけた。「無能」「学生の指導を真面目にせよ」という内容で。もちろん返事は来なかった。 

自殺願望

インターネットを調べると、次のような事例が載っている。


 不当に多い課題を到底不可能な短期間にこなし提出するよう指示する(高崎経済大学では2006年に進級を質に取られた学生が自殺している)。[「学生自殺 高崎経済大、准教授を懲戒免職」共同通信2007年4月10日]


  正当な理由を説明することなく、学位論文などを受理しない(東北大学大学院で2009年に、2年連続で博士論文受理を拒否された院生が自殺している)。[「東北大大学院生が自殺…博士論文、2年連続受け取り拒否され」読売新聞2009年5月13日] 


 京都大学の大学院生は建築学の研究を行いたかったにもかかわらず、子どもの行動パターンに関する研究を行うことを強要されたこと、本来英語で研究の指導が受けられるということになっていたのに英語での指導がほとんど受けられなかったことなどによって自殺した。[『毎日新聞』2009年3月6日5]



 このような記事を読むと、能力があるのだから自殺しないで別の道を進めばいいのに、と大抵の人は思ってしまうだろう。しかし、今日まで別の道を拒み、また諦めて別の道に進んだ友人を卑下し、一途に自分の可能性に賭けて、長年にわたり必死で勉強してきた。従って、研究者を断念して別の道を進もうにも、進むべき道が見つからない。これが死を選ぶことになってしまう。
 

私も、抗議の自殺をして、問題を大きくさせ、木村教授に復しゅうすることを考えた。しかし、悪い奴が生き残り、社会の役に立つ人間が死ねば、だんだんこの世の中は悪くなる。それに、平気で責任を学生にかぶせるような奴だから、私が死んだところで「馬鹿か」とあざ笑うだけだ。やはり生き抜くべきだと考え、かろうじて自殺は思いとどまった。
 当時NHKテレビで「ふりむくな鶴吉」という時代劇が放映されていた。ふりむけばいやな思いばかりだ。とにかく過去を忘れることに徹した。「ふりむくな、ふりむくな」とじゅ文を唱えながら……。 


 学問的な壁を乗り越える方法を編み出すのが研究者。生きる目標を失ったとき、工夫してそれを乗り越えるのは人生の研究者。研究者なら、ここでくじけずに前向きに生きようとした。過去のことは振り向かないように心掛けた。思い出せば人間不信に陥り、生きる意欲を失ってしまうからだ。
 

1974年11月 中野君との偶然の再会…「教授ってそんなに偉いのか!」
          

 土曜日の夕方。神戸大最寄りの阪急六甲駅で電車に飛び乗ったら、目の前に中野紳二君が立っていた。私が研究生を辞めて、3か月ぶりの再会である。彼は私の退学後、蛍光体研究を引き継いでいた。私が塚口駅で降りるまでのおよそ25分間の会話。


中野君 「木村さんに、(私が)退学した理由を何回聞いても教えてくれなか
    った」
     相変わらず、自分の都合の悪いことは、言わない。


中野君 「『(私が退学した理由を、教授会で)なんて説明しょうか』と困っ
    ていた」


私  「なんとでも言える」
    学科教授会で質問されても、研究室内と同じように都合の悪いこ
   とは黙秘する、というわけにはいかないだろう。しかし、二枚舌で、平
   気で約束を破る木村教授なら、学科教授会を言いくるめるのは朝飯
   前のはずだ。
 

中野君 「紫外線レーザーを買う予定だったんでしょ」


私  「そうだ」
    私の後を引き継いで、2年前に手作りした紫外線ビーム発生装置で
   気流の可視化実験をしたようだ。何度やっても失敗して、初めて紫外
   線レーザーが必要なのだと気づいたのだろう。
    私が、紫外線レーザーを買う予定を反故にされて怒って辞めたの
   ではないか、と推測したのだろうか。
 



中野君 「水は簡単に可視化できる。盛田さんは、運が悪い。あれは世界的
    な研究だ」
     中野君は、外国の論文を読んで(修士課程の授業の中に、「論文
    講読」という教科があり、学生は自身の研究テーマに関係のある
    英語論文を取り上げて、皆の前で説明することになっている)、こ
    のレベルなら、今やっている研究の方が優れている、と気づいた
    のだろう。
     水流の可視化だけでも、世界に通用する成果なのに、それを無
    視して、気流の可視化を強要する。しかも、気流の可視化に必要な
    レーザーを買うと言っておきながら買わず、失敗を繰り返させる。
    変な教授に出会って、運が悪い。私が大学を辞めたのは当然だ、
    と感じているようだ。中野君に一言も言わずに退学した私の心情
    を、理解し、許してくれている。
     実際、上司がアホだと、中間管理職は部下に対する責任がまっ
    とうできない。


中野君 「木村さんが、昨年の(東京での)論文発表のとき、『発表が最後な
    ので満席だった』と言っていた」


私  「それは違う。最後だからではない。流体の可視化にどの企業も関心
   があるんだ」
    通常、講演会の目玉となる論文は、あえて最後に持ってきて、聴衆
   が途中で帰らないようにする道具にするはずだ。いつものように教
   授が中野君の無知に乗じて、蛍光法による水流の可視化なんか大し
   た成果ではないと誘導しているのだ。


中野君 「木村さんが『ノーベル賞にはどんなタキシードを着ようか』とか言
    っていた」
     さんざん失敗しても、まだノーベル賞と言っているのか。
     このホームページを公開してから、読者から「蛍光法の研究は、
    ノーベル賞の受賞対象分野外だ」とのご指摘を受けた。実際に調
    べるとその通りである。木村氏が、重要事項の確認を行わないで、
    勝手な妄想に浸るのはいつものことだ。しかし、このご指摘には参
    った。ここまで木村氏が重要事項の確認に杜撰だとは。開いた口
    が塞がらない。同じ失敗を何度も繰り返すはずだ。


中野君 「盛田さんの修論は、木村さんが『データ集だ』と言っていた」


私   「それは、私の修論をチェックしなかった、木村さんの責任だ」


中野君 「そ、そうやろう」
     指導責任を果たさないで、学生の書いた論文にケチをつけるの
    はおかしいと、中野君も気付いているようだ。教授の人間性や
    指導法に疑いを持っていた。
     毎年のことだが、普段はたばこを吸っておきながら、教授は持
    病の喘息のために2月には大学を休む。それで、私を含め、学生の
    論文審査がおろそかになる。後で、あの論文はおかしいとか言うの
    は、自分の責任逃れだ。教育者として失格だ。

     私の修論がデータ集のようになったのは、論文のように簡素に
    書いてしまうと、研究に詳しいものが木村教授を含めて誰もいな
    くなるので、引き継ぎ者が何をどうしてよいかわからず、挙句の果
    てに、会社で仕事中の私に電話で聞いてくるかもしれない。さらに
    、もたもたしている間に他の研究者に追い越されてしまう。そう思
    って「データ集」みたいな論文を書いたのだ。
     しっかりした教授なら、というよりは普通の教授なら、助手をつ
    けて研究を滞りなく引き継げるようにするはずだ。教授に計画性
    がないからそうしてやったのだ。教授のしりぬぐいを、私がしてや
    ったのだ。本来なら、感謝されていいことだ。


――ここまでは、お互いよそよそしい会話であった。私が「それは、木村さんの責任だ」と言ったことから、木村教授批判で話が盛り上がった――



中野君 「水では可視化の写真が撮れるけど、いくらやっても空気では取
    れなかった」
    「木村さんに、『いくらやっても空気では取れない』と言ったら、『そ
    りゃ―そうだ』と言われた」

     『そりゃ―そうだ』とは、「私には最初から君のやり方では失敗
    すると分っていた」、ということを意味する。
     では、なぜ失敗しないように中野君に助言しなかったのか。さら
    に、失敗したとき、その理由をデータから探り当て、今後の研究方
    針を指示しなかったのか。
     研究には失敗がつきものだ。なぜ失敗したか、その原因を究
    明することが研究者を育てることになる。こんな時こそ、教授の
    出番だと思うのだが、あきれるほどの逃げっぷりだ。

     おそらく、木村教授自身、蛍光体法が分らないから、助言も、今
    後の指示もできないので、自身の無能がばれる前に、失敗を中野
    君に押し付けて、真っ先に「そりゃ―そうだ」と捨てぜりふを吐い
    て逃げたのだろう。

     どうして執拗に空気の可視化に挑戦させるのか。一つは教授の
    プライドのためだろう。中野君が空気の可視化に成功すれば、木村
    教授の指導は正しくて、「やり方が悪いから」、盛田が失敗したとい
    うことにできる。研究能力が低い割にはプライドが異常に高い。
     もう一つは、成果を焦っているのだろう。若くして教授になって
    しまったので。
     

     半年ほど前の研究会で「失敗したら皆の責任だ」と言っておき
    ながら、結局は中野君一人に責任をかぶせたことになる。自身の
    発言に全く責任を持たないのは木村教授の常だ。
     結局、中野君は木村教授に騙されたことになる。私は騙される
    前に、退学したことになる。危ないところだった。
    
     
     中野君は2人の学部生とチームを組んで、私の後の可視化研究
    を進めていた。リーダーとしてチームのやる気や和を高めるため
    に腐心しているずだ。そのためには、何よりも小さな成果でも出し
    続けることが大切だ。にもかかわらず、「いくらやっても空気では
    取れない」ことをやらせておいて、「そりゃ―そうだ」と一蹴する
    のは、木村教授と学部生の板挟みの中野君をますます窮地に追い
    込むことになる。ひどい。


私   「(『そりゃ―そうだ』と)すぐ逃げるやろ。失敗の責任は学生
    になすりつけるし。普段煙草を吸っておいて、大事な2月
    は『喘息だ』とい って大学に来ないし、約束は破るし、……」

中野君 「大学教授は楽な商売だ。教授ってそんなに偉いのか!」


中野君 「木村さん、可視化の研究を知らんなぁ」


私   「うん、わかっていない」


――お互いに、これまで誰にも言えなかった木村教授への不満を、吐き出した。
しばらく会話が途切れた。
 中野君はじっと私の顔を見て、真剣な顔をして聞いてきた―― 


中野君 「僕、このままで、卒業できるかな……」


私   「以前にもあった。修士論文が通らないと、(学生が卒業できなくな
    って就職できなくなるので)教授の責任問題になるようだ。今のう
    ちに水での実験データを撮って、それで論文を書く準備をした方
    がいい」。

     木村教授に対してこのような不満を持ちながら、「卒業証書」を
    人質に取られては、言う通りにせざるを得ない。私のことを「運が
    悪い」というけれど、研究への憧れを持ち続けて神戸大へ進んだ
    にもかかわらず、学部の4年生、修士1・2年生と3年間もこの蛍光体
    研究に携わり、教授の無謀な指導に我慢してきた彼も、本当に運
    が悪い。


 それにしても、3か月前の研究生退学面談の際、教授が私を引き留めようと、「(ここの研究室でも博士号が)取れる。取れる。取れる」と、口から出まかせを言っていた。
 その出まかせを信じて、私も気流の可視化に失敗していたら、「そりゃ―そうだ」と同じ言葉を言うつもりだったのか。私にとって、人生の重要な岐路にもかかわらず、平気で無責任な発言を繰り返す。この責任感の無さにはあきれる。


 電車が塚口駅に着いた時には、ホームの照明がこうこうと点いていた。秋の日暮れは早い。電車は次の駅に向かって、赤い尾灯の筋を引いて、しだいに見えなくなった。
 残り1年半、ただ卒業だけを望みにして、研究能力習得の希望の持てずに、人間性失格の教授の下で、暗い学生生活を続けざるを得ない中野君。彼とこの駅で降りて、じっくり相談に乗ってあげればよかったと、今でも思う。しかしこの時私は、前向きに生きるために、可視化研究の事は一切忘れようと必死だった。
 平成14年度版神戸大学工学振興会発行の会員名簿によれば、中野君は流体工学専攻とは畑違いの「カシオ」に就職して、その後関連のリース業務会社に勤めている。私同様に、木村研究室で流体工学研究者の夢を打ち砕かれたせいなのだろうか・・・・・・。


 私が修士課程の2年生に進んだ時、西本さんの未完成論文事件の直後の私の不安を払しょくしようと、木村教授がわざわざ学生部屋まで来て「私の言う通りにすれば大丈夫だ」と言った。
 しかし、教授の言う通りして気流の可視化に失敗した。同じく、中畑君も教授の指示に従って失敗した。そして今回、中野君も失敗した。しかも失敗責任からの逃げっぷりが「そりゃーそうだ」だ。
 二枚舌で言うことは頻繁に変わるが、「電卓ミス責任転嫁事件」以来一貫して変わらないのは、自分の失敗を学生に転嫁するこの情けない姿だ。私は、木村研究室の卒業生と言うのが恥ずかしい。この不満を誰にぶっつけたらよいのか。

 
 一つだけ朗報がある。同じ蛍光体による可視化チームにいた4年生の鈴木君が東京都立大学(現在の首都大学東京)の大学院に合格した、と中野君から聞いた。実は彼が「大学院は東京都立大学に行きたい」と言ったので、その大学院にいた私の知人から過去問を入手して渡した。
 当時、東京都立大学には浦田
暎三氏が勤めておられた。民間の会社員との研究会を主宰されてたようで、荏原製作所の設計技師が「浦田さんは頭が切れる」と言っていた。

 大学の会員名簿によれば、鈴木君はその後日立製作所に入社し、タイ国在住ということになっている。
 木村教授による犠牲者を一人でも救済できたことがうれしい。


 
1986年7月 木村教授講演会

  本書を書くために、インターネット検索中に見つけた資料を紹介する。神鋼フアウドラー(株)の会議室において、木村教授が計測学会の会長として「流れの可視化」と題した講演会の抄録である。
 写真1「水素気泡法による円柱まわりの流れの可視化」が載せてある。本来なら「蛍光法による……の可視化」と載せられるべき写真であった。
 また皮肉にも、この抄録の基礎方程式のところには、教授が間違えて、「こんなん学部の学生の方がよく知っている」と言い訳をした偏微分が記されている。
 2ページの限られたこの抄録でもわかる通り、流体について語る時、外してはいけない基本的な式であって、この式を修士論文の指導中に間違えたのは、自動車タイヤのボルトの締め付けを忘れて運転しているようなものだ。言い訳して済ませるようなことではない。頭を剃って助教授から出直してくるべきであった。

 この資料を見つけて唖然とした。蛍光法による可視化研究を破壊し、携わった学生の夢をつぶした張本人が、可視化研究を奨励・発展する立場の計測学会会長なのだから。大泥棒を警察署長に任官したようなものだ。どういう神経なのか。

 蛍光法の知識はさほどでもない、目立ちたがり屋の木村教授は、このような講演会は好きのようだ。聴衆から専門的な質問を受ける可能性が少ないからだろう。
 一方で、以前、蛍光法の論文発表は拒んだ。聴衆が可視化の専門家ばかりで、質問に答えられないという不安からか。




   

1997年6月 地震直後の同窓会

阪神・淡路大震災(1995年1月17日に発生)で、その後大学がどうなったか心配で、完成間もない瀧川記念学術交流会館で行われた同窓会に出席した。
 大学へ通じる六甲トンネルでは、何台もの震災廃材を載せたトラックとすれ違った。ひどいほこりで、窓を閉め切っていても、息ができないほどであった。 教授にとって、私は「招かれざる客」だろう。一方私は「自分は何も悪いことをしたわけではない。悪いのは向こうだ。同窓会に出席して何が悪い」という気持であった。
 教授が私の方を見ながら、会の運営責任者とひそひそと何やら打ち合わせをしていた。しばらくして私が乾杯の音頭を取るように、指名があった。
 

 出席者全員の自己紹介の後、歓談の時間になった。田中助手が私に近づいて「君、変な実験をしたやろ。円板を回して……」 。これについて、帰宅してからいろいろと考えた。「君、変な実験をしたやろ。円盤を回して……」というのは次の実験を指す。


 図表17は、アクリル円盤に蛍光体を塗布して、それに紫外線ビームを照射して、蛍光体の残光性能を簡易的に調べる装置である。本来は、風洞で行うべきであるが、蛍光体を変えるごとに風洞内をきれいに掃除する手間、その際に蛍光体吸引による健康被害を考慮して、この方法を選択した。
 この実験の目的は、気流の可視化に最適な蛍光体を決めることである。具体的には、蛍光体の残光の長いもの・短いもの、残光色の違いによる写真の写り具合を調べた(図表18)。
 

図表17 蛍光体塗布円盤回転装置

 


 
図表18は、2種類の蛍光体の
による残光写真である。ビーム照射点での円盤周速は、左から25.5, 9.42, 3.14m/秒である。 この写真によって、気流の可視化の実現性が一気に高まった。これまで半信半疑だった者も、成功を確信した様子であった。

図表18 各蛍光体の残光特性 

 


 この実験では蛍光体がアクリル板に塗布されているので層流とみなせる。言い換えると、層流25.5m/秒で残光が撮れているからと言って、実際の風洞での25.5m/秒の乱流でも残光が撮れるかどうか、の判断である。
 水流での層流と乱流の流れの可視化写真を、再度掲載して説明しよう。


      図表11 層流域一様流の流れの可視化(記憶による、水流)
(「沈降速度の影響などという不利なデータは発表するな」という木村教授からの指示により、公表を止められたため写真は保存されていない)





      図表13 流速の変化による可視化の状態(水流)

     

 上記2つの写真を比べると、図表11の層流(流速100㎜/秒)では残光長さは約30cmある。一方、図表13の乱流では、流速が速くなるにつれて(下に行くほど)、乱流強度も大きくなるので、蛍光体の乱流拡散も大きくなり、残光は、しだいに広がった雲状域におおわれて測定できにくくなっている。
 更に流速を増やした場合の予測としては、残光は雲状域に完全におおわれるだろう。これは気流で行った場合の予測でも同じである。
 このように層流と比べて、乱流の可視化は格段に難しくなる。と言うよりは、乱流では流れの速さと方向が刻々と変化するのだから、乱流を忠実に可視化すれば、このようにぼやけた雲状になるのは必然の結果である。したがって、乱流の流線に層流と同様の鮮明な流線を期待する方がおかしい。乱流拡散を無視して、層流のデータから乱流の可視化の成功を予測して研究を進めるのは、言語道断だ。他大学の流体研究者の笑いものだ。

 私が研究生を退学後、中野君が研究を引き継ぎ、教授のいう通りにしてまた失敗した。さすがに3回も失敗すると、教授の研究指導能力を、学生はじめ周囲が疑い始める。そこで、教授は気流の可視化研究の失敗を、「誤ったデータを出したヤツがいて、誤った判断をさせられた」と、私のせいにして、流布させたようだ。
 木村教授が加害者で、私が被害者であるのに、いつの間にか教授が被害者ぶって、私を加害者に仕立てたようだ。前述の「論文投稿期限見落とし事件」を彷彿させる。
 「失敗するのが分っている気流の可視化研究はできない」と抗議の退学までした私の忠告を無視した。さらに、「君は問題点を見つけるのがうまい」とおだてておきながら、裏ではその私に責任を押し付けるのは、いつもの教授のやり方だ。


 この研究をした当時、田中助手はアメリカ留学中で研究室にいなかった。桑田技官は責任を他人になすりつける程のワルではない。それに二人とも、木村教授のように責任を負う立場にない。従って責任転嫁をする積極的な動機がない。だから「誤ったデータ」の発案は教授だと断定できる。あの時みんなの前で「失敗したらみんなの責任だ!」と言っておきながら、結局は、私の責任に転嫁した。とんだ濡れ衣だ。研究・指導能力がない上に、性格が悪すぎる。
 私に、名誉ある乾杯の音頭を取らせて、持ち上げておいて、その裏では責任転嫁をして私をこき下ろす。この二枚舌も教授の得意技だ。


 教授権力に部下は従うが、自然は権力に従わない。自然は一番よく自然を知り尽くしたものにしか従わない。流体、光学、粉体、蛍光体の4つの分野を勉強しないと蛍光体による可視化研究はうまくいかない。流体の知識だけでは失敗する。
 層流で乱流を判断するとは言語道断だ。流体の専門家がこれを知ったら、「木村は素人か」と言うだろう。
 教授が「データ集だ」とケチをつけた私の修論に、流体、光学、粉体、蛍光体の4つの分野の参考文献を載せている。横着をして勉強しないからだ。


 結局、私が研究生退学後、可視化法で何の成果も挙げられなかったのか。野球で言えば、10対1で圧倒的な勝ち試合を、「30対1で勝利せよ」と無茶を言い、これができないと、怒って選手を全員引き上げて、試合を放棄してしまったというようなものだ。むちゃくちゃな教授だ。
 私の修論でも世界に打って出られる成果であった。さらに、蛍光体の研究をされた神大工学部工業化学科の井上教授、電気工学科坊教授そして蛍光体メーカーの大日本塗料(株)。これらの協力を得られれば、しばらくの間、神戸大は流れの可視化研究で世界を席巻できたものを。このようなチャンスは一生に一度あるかどうかだろう。


 会の運営責任者から「防衛庁に就職した〇〇さんが、このたび博士号を授与された」との報告があった。この間、教授がまるで「あの時、私の言う通りに退学せずにいれば、こうして博士号が取れたのに」と言わんばかりに、私の方を横目でチラチラと見ていた。
 あの時、教授は私に「学会に論文を5本出せ」「博士論文を先に書いておいて後、神戸大に博士課程ができたら審査して博士号を授与する」と言い、その一方で、約束の紫外線レーザー購入を反故にし、多数決で無謀な研究テーマを押し付けた。こんな非情で無謀な木村教授の下で博士号を目指す学生は日本国中探しても一人もいないだろう。どういう神経なのか。


 どうやら、木村教授は、自分のいう通りにして気流の可視化に中野君が失敗したことを、私が知らないと思っているようだ。相変わらず、相手の無知に付け込んで、自分に都合のよいように人を操る。世間は狭い。こんな二枚舌はすぐばれる。



1999年10月 神戸大退職後の同窓会

神戸三宮の中華街にある飲食店で、木村氏の神戸大退職後初めての同窓会があった。木村氏は退職後、福井市にある私立福井工業大学に再就職している。
 木村氏の事だから、相変わらず欠席者に自分の責任転嫁や悪口を浴びせるだろうと考え、欠席裁判を監視するつもりで出かけた。


  ――出席者のリレートークで始まった―― 


 私は、学習塾をしていること、社会貢献として行政の無駄遣いを監視する市民オンブズ三田の副代表を務めていること、現在裁判中で勝てそうなこと、困ったことがあったら私に相談してほしいというようなことをしゃべった。

 オンブズマン組織に入会した動機は、木村氏のように、相手に法律知識がないことに付け込んで、平気で違法行為や無理難題を押し付けようとする権力の乱用者に対抗できるような、訴訟能力・刑事事件告発能力を身に付け、今後の人生を有利に運びたい、と思ったからだ。
 「私にとって記念すべき日になるだろう」と、暗記しやすい平成10年11月12日、神戸地裁に生まれて初めて提訴した。三田市に対する市民オンブズ三田の最初の裁判でいきなり違法判決を勝ち取り(平成10年、行ウ第47号、三田小学校 で最高裁のホームページで判例検索)、権力の乱用者への対抗力を得た。住民が行政相手に起こす裁判での勝率は1割と言われている。市会議員から、「僕の知る限りでは、裁判で住民側が勝ったのは三田市政では初めてではないのか」と言われた。また毎日新聞記者からは、「塾をしながら弁護士をしているのか」と言われ、苦笑してしまった。
 事実を挙げ、法律と照合して違法を述べるという様式は、工学の思考とよく似ている。

 この成果により、市民オンブズ三田の代表を務めることになり、以降、住民訴訟2件、刑事告発5件、内部告発者の人権救済1件にかかわった。この経験を、本書に盛り込んでいる。
 本ホームページは、こうしたオンブズマン活動の一環である。さらに、学習塾で生徒に「勉強しろ」という以上は勉強したものが報われる社会を築く責任がある。木村氏の不正行為を見逃す訳にはいかない。


木村氏 「(私の発言に対して)感激しました」
 「感激しました」と私を持ち上げておいて、どこかで落としに来るぞ。注意、注意。


木村氏
 「神戸大を辞めてからの定年後の方が忙しい」
 そりゃそうだろう。神戸大時代は、毎年2月に大学を休み、ろくに学生の卒業研究指導をしていない。普段でも、自らの研究成果を学生の前で発表したのを一度も見たことがない。いつも目にするのは、浅黒い顔であった。教授は釣りが好きであった。
 在職中に大した成果を上げられなかった元社長が、退職後のパーティーで、笑みを浮かべて「退職後の方が忙しい」などと言えば、社員や株主からビール瓶が飛んでくるところだ。 これを笑って聞いているOBもおかしい。神大を踏み台にして、次のステップに進むつもりで入学した者なら、怒るところだ。


木村氏 「兵庫県の××委員をしている」
 技術関係の文献調査のような委員だった。こういう自慢話を教授は好きだ。以前、乱流拡散の文献調査を怠って蛍光体による可視化に3回失敗した。今度は大丈夫か。


木村氏 「微分dy/dxのdは何で約分できないのかと、福井工業大生が質問し    た」

 これを聞いて、出席者は爆笑した。
 木村氏が相変わらず悪口や批判を本人のいないところでしている。お前ら笑っている場合か。福井工大では、「神戸大生は大したことはない。私の言う通りにしないで、蛍光体可視化に3回も失敗した」と吹聴しているかもしれんぞ、と言いたくなった。
 では、木村氏が神戸大ではちゃんと能力のある学生を指導できたのかと言えば、度重なる指導ミスで、学生から「(研究方法を)知らんなー」と言われる始末だ。 

 また、「数学ができない」と誰かを批判することで、「自分は数学ができる大物だ」と相手に暗示する、相変わらずのいやらしい演技は健在だ。
 私に言わせれば、この学生のように,分らないことを聞くというのは、人として、とりわけ工学に携わる者としては大切なことだ。分ったふりをしてミスをしてしまい、大事故や装置の不具合につながることがよく起こるからだ(2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所事故、2017年12月11日に起きた新幹線「のぞみ34号」の台車亀裂軽視事件)。
 木村教授自身、偏微分と常微分を混同してしまい、学生の論文の重大なミスに気付けなかった。さらに、蛍光体の物性を勉強しないで、無謀な研究課題に学生を駆り立て、失敗を繰り返し、研究を頓挫させた。そして、ノーベル賞の受賞対象に蛍光体法が該当しないことの確認を怠った。この学生を嘲笑する資格はない。
 

―― リレートークの後、歓談が始まった。私の方を見て、唐突に ――


木村氏 「福井大は威張っている。たしか君も福井大学だったな」
 落としにキターッ! 福井大が威張っているかどうか、私は知らない。仮に福井大が威張っているとしても、卒業生の私も威張っているとは論理が飛躍しすぎている。京都大出身の神戸大教授に、ウソつきで無能なのが一人いたからと言って、京都大出身の神戸大教授はみんなウソつきで無能だというのと同じだ。何をコイツは言い出すのか。(こんなとんでもない論理で学生の研究を指導していたのか。そりゃ何度も、研究に失敗するはずだ。)
 
 もっと腹が立ったのは次の点だ。約束は破る。教授自身の責任を卒業した学生になすりつける。謝罪するどころか、責任をなすりつけた学生に、こうして喧嘩を吹っかける。
 これ以上の威張り方は古今東西無いというような威張り方をしている自
身のことは棚に上げて、「福井大は威張っている」などと他人を批判し、暗に
「私は謙虚ですよ」とアピールしようとする点だ。
 ムカッと来たので、目と目があったときに「しんどい目をさせやがって!」と言ってやったら、ギクッとしていた。木村氏が中座して帰り際、私の顔を見て、怒りを押し殺した顔をしていた。(反論を食らってギクッとするくらいなら、最初から他人を批判しなければいいのに。相変わらず、批判癖は直せないようだ。)

 この同窓会の後、大丸の向かいのバーで2次会をした。私の向かいの席に座った「今日は東大阪の実家から来た」というキャノンの社員が「入社して以来、成果を上げていない」と嘆いていた。
 彼は「神戸大を辞めてからの定年後の方が忙しい」と言う教授の発言をどんな気持ちで聞いていたのだろうか。教授がちゃんと指導していたら、こんなことにはならなかったかもしれない。

たいていの学生は、卒業研究で初めて研究に携わる。それまでは小学校から大学の3回生までは、座学が中心で、他人の業績の後追いで、受け身の学習になる。そういう意味で、卒業研究で初めて未知の分野の攻め方を、研究方法を学ぶことになる。中には、将来研究者になって世の中がびっくりするような成果を上げてやろうという志を持って、長期の受験勉強に耐えて入学してきた学生もいる。このような意味で、卒業研究は貴重な機会だ。
 修士論文を完成したころになって、私に「難しいのが良く分かった」と言ったり、「失敗したらみんなの責任だ」と、学生の指導を放棄するような教授では、この機会は生かされない。


 本書を書きながら、毎年2月に大学に出てこなかった喘息持ちの木村氏が、わざわざ寒い福井に再就職したことに違和感を抱いた。そこで調べてみた。
 気象庁の月別の平均気温℃を調べると、(12月 神戸市8.7 福井市5.9)(1月 神戸市5.8 福井市3.0)(2月 神戸市6.1 福井市3.4)(統計期間 1981~2010)。
神戸市の2月の気温6.1よりも福井の方が12・1・2月ともに低い。
 神戸大教授時代に寒いからといって、毎年2月に大学を休んでいたが、福井の12・1・2月はもっと寒い。福井工大をこの3カ月は休んでいたのか。私学ではそれはあり得ないだろう。しかも、年を取ってから寒い福井への再就職は喘息持ちの体にはこたえるはずだ。すると、神戸大教授時代の毎年2月の休みは単なるサボリだったのか。

 

手紙を送りつける

腹の虫がおさまらないので、年賀状に「今年もノーベル賞をのがしましたね」と書いて、送り付けた(この頃新聞には、日本人ノーベル賞候補者が、よく取りざたされていた)。私は、教授のように、本人のいないところでコソコソと批判しない。3年連続年賀状を出したが、返事が来ないので中断した。


2015年 神戸大学工学振興会機関誌(KTC 2015、No79)
     木村雄吉名誉教授の寄稿文への反論 

    リンク 神戸大学振興会 https://www.ktc.or.jp

(2019,9,11に調べたところ、この機関誌No79が開けない状態になっている。
No65~88までの合計24号中1冊だけNo79が開けない。確率24分の23の割合で故意の可能性がある。臭いものにはふた、なのか)

(2021,9,18に調べたところ、機関紙 KTC No.80 1, Mar. 2015 にこの寄稿文が再掲載されている。ソウコナクッチャ)

 2014年秋の瑞宝中綬章を受けた木村雄吉神戸大名誉教授の寄稿文がある。以下はその内容である。(①、②の番号の記入、②の前の空白行の挿入は筆者)
 これまでいろいろと私が書いても、木村氏が否定すれば信憑性に欠けるので、ここは否定のしようがない寄稿文を徹底分析して反論する。長い寄稿文だが、証拠資料として原文を勝手に加工・省略できないので我慢して読んでほしい。

 ―――――――――――――――――――――――――――――
(引用開始)


 私が神戸大学工学部機械工学科流体力学講座に助教授として着任したのは昭和43年4月のことである。着任早々真っ先に手掛けたのは極超音速風洞の設計及び製造であった。高速空気力学、空気の電離、解離を伴う実在気体力学の研究に欠かせぬ装置である。幸い先輩の先生方のご尽力のおかげで比較的短期間に装置の完成をみた。平成10年定年退官までの30年間、この風洞装置は大きな故障や事故も起こさずよく働いてくれたものと思う。


 私があまり実用的とは言えない高速空気力学の研究への導入はいつ、何がきっかけだったのだろうか。さしあたって学生時代にさかのぼり、思い出すままに回想してみることにする。 昭和32年、京都大学機械工学科学部4回生の時に初めて、「流体」の研究というものに携わった。「軸流水車の翼列の研究」というテーマが与えられた。研究とは名ばかりで、実際は大学院生の研究の手伝いであった。巨大な回流水槽中に設置された翼型の性能試験で、数10本並んだ水銀マノメータの読みを記録するだけの作業であった。あとは読み取ったデータをグラフに描きプラニメータで面積を測る。このような作業が毎日続くと、やってることが空しく、自分にとって何の益にもならないのではないかと悩んだものである。後に知ったことであるが我々の得た結果は軸流水車翼のデータベースの一部であったようである。

 それでも週末などには神社仏閣を巡ったり、街中を散策したり結構京都の街を楽しんだものである。ある日、古書店で一冊の本に出会った。戦時中に発行されたもので粗悪な紙は黄ばみ、かびた臭いがする、「ロケット航空工学」という本、著者はE・ゼンゲルとあった。これが私が生れてはじめて所持した専門書であった。内容はロケット推進力、空気力学、ロケット軌道などであり、当時の私にとって文中の専門用語が新鮮であった。なかでも弾丸周辺に生じる衝撃波のスケッチ図が強烈に印象に残っている。現在の航空力学の水準からみて、それほど高いとは言えないし、中には誤った記述もあるが当時は有名な書物であったようだ。当時の私の学力では半分も理解できなかったと思うが熱心に読んだ記憶がある。現在ではこの本も専門書としての価値はほとんど無いが、今も私の本棚の中に大切に保存してある。


 大学院でも引き続き同じテーマが与えられ、今度は学部生が下についてくれたおかげで実験は彼らに任せ、私自身は翼理論の論文を読む暇ができた。その翼理論を実際の翼列に適用するための数値計算を手回しのタイガー計算機で行うのだが、労力と時間ばかりがかかったのを覚えている。

 昭和35年、三菱重工業株式会社神戸造船所流体力学研究所に勤務することとなった。ここで遠心圧縮機の研究に従事する。圧縮機ローター内の羽根形状による熱効率の研究であった。毎分2万回転の羽根車が強烈な騒音を立てて回転するなか耳栓をして実験をした。ここでは熱効率わずか1〜2パーセントを競うという業界のし烈さを知った。そのほか鉄塔用風洞の製作にも携わった。幅1m、縦2mの吹出し口を持つ縦長風洞の設計担当を命ぜられた。特徴は地表を吹く風の風速分布シミュレーションができる性能を有する風洞であった。 


 三菱重工ではわずか2年足らずの勤務であったが、本物のプロの仕事を見ることができた。特に設計製図に関して、その迅速で正確なこと、製図の美しいことが強く印象に残っている。

 昭和37年、京都大学工学部航空工学教室に助手として勤務することになった。最初に与えられた仕事が極超音速風洞の試作研究で、この風洞は日本には未だ無く世界でも開発中の段階で、数少ない文献を頼りに手探りで設計製作を行わねばならなかった。全長7m足らずの小型パイロット極超音速風洞装置を試作して、設計マッハ数など所定の性能を得るための実験を、試行錯誤を繰り返しながら日夜行った。ほぼ一年近くの試験運転を経て、ようやく研究成果を論文に仕上げることができた。論文は日本航空学会誌に掲載されたが、当時、航空学会には戦時中に戦闘機設計などで名を馳せた方々が大勢おられた。会長は堀越二郎氏で、会員には山名正夫教授、木村秀政教授、糸川英夫教授など多士済済のメンバーが居られ大いに士気を鼓舞されたものである。 


 昭和39年、京大宇治キャンパス超空気力学実験室の設置が文部省によって認められた。私がこれまで関わってきたパイロット風洞の研究論文を基に本格的な大型風洞を設計・製作した。全長32m、マッハ数10〜16の大型極超音速風洞がこの実験室内に完成する。吹出し口直径50cmで世界のどの風洞に比しても引けを取らないものであった。

 また、この研究室内に設置するプラズマ風洞の設計にも携わった。放電電極間にアルゴン、ヘリウムなどの希ガスを通しプラズマを発生させる。このプラズマトーチを風洞内に取り付け、ノズルを介して噴射させるのだが、澱み点温度5000Kに達するので冷却に苦労した。試運転時に何度もノズル材料が高温で溶け、水漏れをおこす失敗を繰り返しては設計のやり直しをした。昭和40年暮れに完成した。


 顧みれば学生時代に偶々入手した一冊の書物が私の研究へのイントロダクションとなったのかも知れない。このことが助手時代での種々の実験や物造りの経験を通じ、流体力学、空気力学はもとより実在気体力学、放電技術、設計製図などの知識、技術などを得ることにつながった。そしてこれらが後々神戸大学における30年間の研究生活の基盤となった。

(引用終了)

―――――――――――――――――――――――――――――

 上記引用文への反論をはじめよう。

①について
1、教育業績も研究業績もない

 木村氏が30年間も勤務した神戸大工学部の、機関誌への寄稿文であるにもかかわらず、神戸大勤務時代(①の部分)についての記述量は、全文(①と②の合計)の11分の1しかなく、余りにも少ない。念のために、他の受章者の寄稿文を調べてみると、神戸大時代については全文の半分以上の記述量がある。当然だ。読者のほとんどは神戸大工学部卒業生だから、木村氏の神戸大時代について一番知りたいはずだ。なのに、どうしたことか。神戸大時代について語りたくないのか。

 優秀な名誉教授は、たいてい博士号取得者を何名輩出、著名な国内外の何とか賞を受賞と書くのだが、木村氏の成果らしきものは「30年間大きな故障や事故も起こさずよく働いてくれた風洞装置」とある。博士号取得者や研究成果よりも実験装置を自慢するのは、筋違いではないか。
 念のために、インターネットで、次の3つのサイト「科学研究費助成事業データベース」「日本の研究.com」「日本機械学会論文集」から、進藤明夫・赤川 浩爾・木村雄吉の3氏の名前を入力して、研究成果を検索して、比較した。木村雄吉氏の査読付きの論文が一番少ない。日本機械学会賞レベルの受賞はない。(2022年3月30日現在)


 さらに言えば、同じ装置で30年間世界の最先端の研究ができるのかという点だ。成果が上がれば研究助成金がもらえ、新装置でさらに成果を上げ……というようにならなかったのか。

 「自慢好き」の木村氏が、人材輩出も研究成果も寄稿文に取り上げなかったということは、よほど「業績がない」ということだろう。


2、大きな事故も起こさず?
 助手の一人が失明しかけて夜中に救急車で運ばれたことがあった(私の研究グル―プも同じ目にあう可能性があった)。これは、寄稿文で言うような「大きな事故」には当たらないということか。

 蛍光体には亜鉛・カドニウム・銅などの重金属が含まれ、粒径がたばこの煙くらい小さいので肺に入り込む。そのため特殊なマスクを買ってほしいと懇願したが無視されたことがあった。木村氏が、「大きな事故」を防ぐために日頃学生の健康被害には十分注意した、と言うことでは決してない。
 そう言えば、実験現場に教授は、ほとんど出てこなかった。空気が汚れていたからか。自身の健康には十分注意していたのは確かだ。
 

3、例年2月の欠勤の理由?
 木村氏は、普段喫煙を続けながら、例年卒業研究追込み時期の2月は、喘息のために大事を取って大学に出てこなかった。当然、学生の卒業研究の指導はおろそかだった。
 神戸大退職後、福井工大に再就職している。福井は神戸よりもずっと寒い。そんな寒いところでは、きっと12・1・2月は喘息で大学に出られないだろう。年老いた体力でそんな寒いところで勤務できたのなら、若き日の、神戸大での例年の2月欠勤は許されないことになる。


②について
 「……流体力学、空気力学はもとより実在気体力学、放電技術、設計製図などの知識、技術などを得ることにつながった。そしてこれらが後々神戸大学における30年間の研究生活の基盤となった。」について。

4、「研究生活の基盤となった」?
 木村氏は偏微分も常微分も区別できず、院生の理論面での指導ができていなかった。私には、理論面で分らないことがいっぱいあったが、木村氏に質問したことは無かった。と言うよりは、正しい指導が期待できなかった。
 「研究生活の基盤となった」と言われるが、基盤には、高いレベルも低いレベルの基盤もある。「研究生活の低いレベルの基盤となった」と訂正してほしい。

 さらに、自然科学の分野は広く奥が深い。やればやるほど新しい発見がある。日進月歩の世界だ。仮に「研究生活の基盤となった」知識でも、しばらく経つと陳腐化する。一時的な「基盤」にいつまでもあぐらをかいていると、学生からも馬鹿にされる。このような高慢なセリフは、神戸大学工学振興会機関誌の寄稿文のどのページを探してもない。
 アインシュタインの言葉がある。「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。」
 研究は、たまねぎの皮を内側から外側へ剥くような作業だ。剥けば剥くほど、より多くの未知の皮が見つかる。

 

5、研究生活の基盤となっていない 1
 私が回流型可視化風洞を作ったとき、教授から何の助言もなかった。私の書いた設計図にすぐに製作OKが出た。しかし、後で水流を可視化して分かったのだが、この回流型可視化風洞は、整流格子などの乱流強度を抑える仕組みの無い欠陥風洞だった。木村氏の言うように、三菱重工業での
縦長風洞の設計担当の経験が、「研究生活の基盤」となっていない。

6、研究生活の基盤となっていない 2
 「全長7m足らずの小型パイロット極超音速風洞装置を試作して、設計マッハ数など所定の性能を得るための実験を、試行錯誤を繰り返しながら日夜行った。……私がこれまで関わってきたパイロット風洞の研究論文を基に本格的な大型風洞を設計・製作した」とある。

 要するに、いきなり本格的な大型風洞を製作しないで、まずは、小型パイロット極超音速風洞装置で基礎データを収集したのだ。慎重に、試行錯誤を繰り返しながら、研究を積み重ねたのだな。

 一方、神戸大教授就任直後の「蛍光体による水流の可視化研究」では、「基礎から積み上げて行きたい」という私の主張は「理学部的だ!」と非難された。そして、いきなりの気流の可視化で、私、中畑君、中野君の3人が失敗した。この研究をなめてかかったのだ。研究能力がない。全然「研究生活の基盤」となっていない。おかげで学生はしんどい目をさせられた。しかも、失敗の責任まで学生に押し付けた。


7、研究生活の基盤となっていない 3
 筆者の「蛍光体による水流の可視化研究」は、修論段階でも、流体関係者が「使ってみたい」というほど評価が高く、産業界・流体工学に大きく寄与できる成果だった。それを無視して、それをボツにしてしまった。税金を使った研究成果を社会に還元しようとする責任感がない。
 そして、社会に貢献する人材を育成するという教育者としての使命感がない。
 「公に貢献する責任のある公僕としての研究生活の基盤」となっていない。

①と②について
 神戸大勤務前時代(②の部分)には京都大学・三菱重工業時代に「流体力学、空気力学はもとより実在気体力学、放電技術、設計製図などの知識、技術などを得ることにつながった」とあり、すごい知識・技術を得た大物が神戸大に来られたんだな、と誰でも思う。

 さらに末文に「そしてこれらが後々神戸大学における30年間の研究生活の基盤となった」と、たいそう自信に満ちた言い切である。他の教授の寄稿文を探してもこれほど自信に満ちた文は見つからない。

 しかし、自信満々の木村氏にしては、①で述べたように、華々しい人材輩出・研究成果の記述が一つもない。①と②の趣旨が矛盾している。この「二枚舌」は何を意味しているのか。

8、業績不振は神戸大生の責任だ?
 西本さんの未完成論文事件で、木村氏の怠慢(偏微分と常微分の区別がつけられず、指導を誤った)にも原因があったにもかかわらず、「(西本さんの論文について)こんなの初めてや。私の言う通りにすれば大丈夫だ」と責任を西本さんになすりつけたことがあった。 
 また、中野君が、木村氏が指示した気流の可視化に失敗した時は「そりゃ―そうだ」と言って、暗に「君が失敗するのは、賢い私にとっては想定内の事だ。君には無理だと分っていた。私の指導は正しいけれど、君に能力がないから失敗したのだ」と責任を中野君に転嫁したことがあった。
 更に、私の修論を、海外向けの工学部英語論文集に掲載するので、英訳をしてほしいと言われ、大学に顔を出した。しかし、投稿期限が過ぎていた。教授はいろいろ弁解していたが、そのうち、私に謝罪するどころか「なんでもっと早く修士論文を書いて、英語論文に直しておかなかったのか」と言い出し、被害者の私に責任を押し付けてきたことがあった。

 このように、自身の失敗は絶対に認めない。失敗の責任は何が何でも学生に押し付ける性格だ。これらの事例から、「二枚舌」は「こんな優秀な私が、神戸大に来て成果を上げられなかったのは、能力がない神戸大生の責任だ。私の責任ではない」と暗に言っているのだ。

 こんな暴論でも、学生を生殺与奪できる研究室内では通用する。しかし、一般社会では通用しない。例えば、30年間社長を勤めて、その間業績を上げられなかった者が、「この会社に来る前は、俺は優秀だった」と言い訳しても誰も納得しない。過去にどんなに業績があったとしても、新しい職場で成果を上げられなければ、何の意味もない。給料は過去に対して支払われているのではない。


 学力の低い大学生の指導では、教授がどんなに頑張っても、成果が上がらないこともあるだろう。そこで、神戸大生レベルでは博士号取得や研究業績を上げることは無理なのかどうかを調べてみた。
 大学入試偏差値を調べてみると、神戸大工学部より少しだけ千葉大工学部の方が低い。その低い千葉大工学部で業績を上げている教授がいる。2016年度日本機械学会 機械力学・計測制御部門で、 学術業績賞を受賞した野波健蔵千葉大学特別教授である。

 「同氏は,機械力学・制御に関する査読付き学術論文236編をはじめ,著書18冊,育成した博士の人数51名など優れた学術業績をあげられました。その結果,日本機械学会論文賞,部門パイオニア賞などを受賞されました。1994年出版の「スライディングモード制御」は,先駆的書籍であり,1998年出版の「MATLABによる制御理論の基礎」,「同制御系設計」は高度な制御理論を平易に記述した新しい教科書として高い評価を受けました。……「ドローン研究開発の第一人者」となっています。」(学会誌からの引用)
 
 この引用文中に、「育成した博士の数51名」とあり、神戸大生でも指導者次第で伸ばせることが分かる。従って「こんな優秀な私が、神戸大に来て成果を上げられなかったのは、能力がない神戸大生の責任だ。私の責任ではない」とは言えないことになる。
  
 
9、「……30年間の研究生活の基盤となった」という強い言い切り方について
 私の経験によれば、木村氏は、相手が「大学教授は謙虚で有能で正直だ」という好意的な先入観を持っている、とみなした時に、「強い言い切り方」を多用する。しかも今回は、名誉ある瑞宝中綬章を受けた寄稿文である。強気の作文を書いたのだろう。
 しかし、前述の野波教授ほどの業績を上げて、初めて「……30年間の研究生活の基盤となった」と言い切ることができると言うものだ。「30年間大きな故障や事故も起こさずよく働いてくれた風洞装置」程度で、あつかましい。

 木村氏が教授に昇進して初めての修論発表会で、前述の西本さんの論文発表後、赤川教授から「ノズルから測定物体までの、実験説明上の基本的な長さが抜けている」、「定常か非定常現象か、どちらを扱った論文か分らない」という基本的な指導ミスを指摘された。この間、指導責任のある木村氏はうつむいて、頭をかいていた。会場を埋め尽くした学生や教官は、「中学生の夏休みの自由研究程度でも修士論文とし出せるのか」と唖然としていた。どこが「……30年間の研究生活の基盤となった」である。だまされてはいけない。
 
 36歳と言う若さで教授になったので、当時の教授・助教授・助手や私のような批判的な学生は、今や誰も神戸大に在職していない。何を言ってもごまかせる、と読者を見くびって、自分に都合のいいように文を書いたのだろう。週刊誌的に言えば「木村節全開」というところだ。木村氏が得意の「相手の足元を見て、羊頭を掲げた」のだ。木村氏の性癖を熟知した私の面前で、堂々としゃべれるようなことではない。
 


10、仮想的有能感
 もう一つの解釈は、前述のような「相手の足元を見て、羊頭を掲げた」のではなく、木村氏は本気で「……30年間の研究生活の基盤となった」と思い込んでいるのではないか。自身の能力を過大評価し、「自分のミスなんかは大したことはない。成果が上がらなかったのは、みんな学生のせいだ」と。この解釈の方が、神戸大時代の木村氏の無責任な言動をよく説明できる。
 
 私にはこれ以上の深い説明を、精神分析の知識がないので展開できないでいた。しかし、新聞記事で気になる言葉を見つけた。他人を非難する息子の言動に不安を覚えた母親からの人生相談の中で、回答者が用いた、速水敏彦 名古屋大学大学院教育学研究科教授が提唱する「仮想的有能感」である。
 「現実には有能とは認められないにもかかわらず(だから仮想的有能と名付けられた……筆者注)、失敗の原因などを自分以外の要因に帰しやすい。また他者の失敗に敏感で、その機会を捉えては相手を批判することで、自分の有能さを回復させたり誇示したりする」とある。
 木村氏の言動はこの「仮想的有能感」に酷似していて、氏の不可解な言動をほぼ説明できる。念のために、前述の文章を本書の内容に沿って書き直す。
 「現実には有能とは認められないにもかかわらず、教授自身の指導上の失敗を学生側の要因に帰しやすい。また学生の失敗に敏感で、特に有能な学生を標的にして、その失敗の機会を捉えては学生を批判・叱責することで、自分の有能さを回復させたり誇示したりする」。


 実社会ではここまでが限度だろう。しかし、大学の研究室では、教授に強大な権力が与えられるので、さらに過激になる。この文章に「研究の失敗が明らかに教授の責任であっても、その責任を学生に転嫁し、挙句の果てにその学生を執拗に叱責する」を追加しておこう。 
 
 
 以上の反論から、本書の内容が虚偽ではない、と信じていただければうれしい。
 衆目にさらされる機関紙でさえ、「今後の基礎になった」などと、平気で嘘を並べたり大風呂敷を広げる性格だから、閉鎖的な研究室ではもっとひどい言動、例えば、学生の成果を「アイデアを採用したわしの業績だ」と横取りしたり、研究の指導の失敗を学生のせいにして、研究室の皆の前で叱責することが、日常的に行われたであろうことは、賢明な読者なら推測できるであろう。さらに、教授によって発表された論文の信憑性について、大いに疑問を抱かれるであろう。

 木村氏は研究の進め方も学生の指導の仕方も、支離滅裂だった。大学にとっては、数千人の学生のうちの一人かもしれない。しかし、中には人生をかけて研究に取り組んでいる学生がいる。学生の研究者への夢を摘み取り、社会へ貢献できる技術を廃棄した。神戸大学は社会的責任を痛感してほしい。
 再発防止対策を講じ、まずは木村氏から名誉教授の称号をはく奪すべきだ。さらにできることなら、「多数決の愚」という銅像を建てて、後世への戒めにしてほしい。研究方針を決めるために、徹底して議論をし、多数決に頼るなという警告を込めて。もちろん像は「失敗したらみんなの責任だ!」と立ち上がって叫んでいる凛々しい木村教授の姿だ。

第1編のまとめ


1、研究手法にノーベル賞級用とその他一般用の区別はない。基礎からデータを積み上げ、壁にぶつかったら、いつでも積み上げた基礎データから、その原因がつかめるように進めること。机上の論には、盲点がいっぱいある。


2、学習心理学は大切。おかしな指導から自身の能力を守るために。さらに「おまけ」として、研究者をあきらめても、学習塾で食っていける。


3、人の上に立つ人の心がけとして
① 発言に一貫性が必要。二枚舌、三枚舌は部下からの信頼を大きく損なう。
② 誠実に勤務すること。健康管理も仕事の内。
③ 約束は守ること。守れない時はそのことを直ちに部下に伝えること。その時に、守れなくなった理由、次善の策を示す。
④ 上司としての責任範囲を明確にし、責任を全うすること。上司の責任を部下に押し付けてはいけない。
⑤ 常に勉強をして、適切な判断ができるよう準備しておくこと。
⑥ 能力がある部下に、能力があるからと言って仕事をどんどん押し付けると、しだいに能力を低下させ足り、だらだら仕事をして自己防衛を始めるか、怒って去って行く。 
⑦ 都合の悪い実験データを隠すと、失敗した時の原因究明ができなくなる。担当者が変われば、同じ失敗を繰り返すことになる
⑧ 若くして出世した人には注意が必要だ。成果を焦りすぎる。
 以上が、木村氏の言動から気付いた項目だ。
 


4、独創性のある教授は、好奇心旺盛で学習意欲が高く、次から次へとアイデアが浮かぶから、自分の研究で忙しい。その研究姿勢を見せることが、生きた教育になる。
 反対に、独創性のない教授は、好奇心が薄く学習意欲が低く、暇だ。そのくせ功名心だけは高い。学生にばかり独創性を要求する。こういう教授は避けた方がいい。


5、学部から大学院に進学すると研究室に配属になる。一種の教授の奴隷下に置かれることになる。研究室は自分の興味だけでなく、教授の人柄・人材育成能力で決めること。そのためには、その大学の学生や教官からも情報を入手すること。


6、今はインターネットの時代。情報発信が容易な時代。学生にパワハラ・アカハラをした教授は、痛いしっぺ返しを食らうことになる。警告しておく。




編集後記
 これまで、私の知人から、神戸大→荏原製作所→神戸大→退学 という私の不可解な行動について、よく聞かれた。「しゃべりたくはない」と断ってきた。
 理由は4つある。話が込み入って長くなること。話の内容が、醜い人間の心情をあぶり出して、聞き手にとって不愉快過ぎること。私自身、嫌な思い出は忘れたいこと。陰で人の批判はしてはいけないという信条。
 しかし、終活として、少しでも世の中を良くしておきたいという気持ちがあり、あえていやな思い出を掘り起こした次第である。晩年になって、戦争を語る戦争経験者と同じような気持ちかもしれない。
 

 

 本ホームページは2017年6月、インターネット上に公開し、その後、訂正を重ねてきた。
 公開当初、法的な「おとがめ」があるものと緊張した。いつでも受けて立つつもりでいる。しかし3年経った今日まで何もない。
 下手に裁判沙汰にして、マスコミの餌食にされるくらいなら、無視しようということだろうか。妄言だと一蹴するには、客観的事実が散在していて、下手に動くと返り血を浴びる羽目になるからか。

 もしかしたら、神戸大学当局は、「いくら教官にパワハラ防止の研修をしても効果が薄い。そこで、このホームページを「見せしめ」に利用して、パワハラ防止に役立てているのではないか。痛し痒しということか。本ホームページのこのような利用の仕方は、私にとって本望である。


 
(注:2018年11月19日現在、神戸大ホームページを見ると以前に比べて、パワハラ・アカハラ防止の記載が格段にわかり易くなっている) 

2019,9,11に調べたところ、本ホームページで引用した神戸大学工学振興会機関誌No79が開けない状態になっている。No65~88までの合計24号中1冊だけNo79が開けない。臭いものにふたか。確率24分の23の割合で故意の可能性がある。



 本文をお読みいただき、ありがとうございます。 盛田守
       
 



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